弁護士 合田雄治郎

合田 雄治郎

私は、アスリート(スポーツ選手)を全面的にサポートするための法律事務所として、合田綜合法律事務所を設立いたしました。
アスリート特有の問題(スポーツ事故、スポンサー契約、対所属団体交渉、代表選考問題、ドーピング問題、体罰問題など)のみならず、日常生活に関わるトータルな問題(一般民事、刑事事件など)においてリーガルサービスを提供いたします。

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コロナ禍とスポーツの価値

1 はじめに

世界的なコロナ禍により、2020年に予定されていた東京五輪が延期となり、その後の緊急事態宣言の発出期間中は、予定されていた殆ど全てのスポーツイベントが中止・延期となり、学校での部活動やクラブチームでのスポーツも休止となりました。

この様な中で、「スポーツがなくても、生活に殆ど影響がない」とか、「スポーツこそが不要不急だ」という方もいれば、「あるスポーツに打ち込んでいたけど、そのスポーツができなくて心身共に不調になった」とか、「プロ野球もJリーグも中止となり、生き甲斐がなくなった」という方もおられることと思います。このように、ステイホーム期間中に、スポーツについて考えたり感じたりしたことは人それぞれでしょう。

そこで本稿では、コロナ禍を契機としてスポーツの価値に変化があるのかないのか、あるとしてどのような変化なのかを考えてみたいと思います。

 

2 そもそもスポーツとは?(スポーツの定義)

コロナ禍とスポーツの価値との関わりを考える前に、そもそも「スポーツ」とは、どのような活動を指すのか考えてみたいと思います。

古くは、スポーツは、本質的な3要素として「プレイ(遊戯)」「闘争」「激しい肉体的活動」を挙げ(ベルナール・ジレ)、その3要素が複合したものとされるなど、スポーツの定義は比較的狭く解されていました。このような3要素を併せ持つスポーツとして、プロスポーツや五輪や世界選手権等でのトップアスリートのパフォーマンスが想起されます。

 

3 スポーツの現代的定義 

スポーツが一部のトップアスリートだけのものではなく、一般市民にとってのものとなるにつれ、一般市民にスポーツ権が認められるようになり、スポーツの定義も広く解されるようになりました。

たとえば、スポーツ基本法前文においては、「スポーツは、心身の健全な発達、健康及び体力の保持増進、精神的な充足感の獲得、自律心その他の精神の涵養(かんよう)等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動」とされています。

スポーツ基本法は法律であるため、少し分かりにくい表現となっていますが、スポーツ庁のウェブサイトでは、このことを噛み砕いて、次のように説明されています。

スポーツは、「身体を動かすという人間の本源的な欲求に応え、精神的充足をもたらすもの」(「第二期スポーツ基本計画」)として、「たとえば、朝の体操から何気ない散歩やランニング、気分転換のサイクリングから、家族や気の合う仲間と行くハイキングに海水浴など、その範疇はさまざま。つまり、スポーツとは一部の競技選手や運動に自信がある人だけのものではなく、それぞれの適性や志向に応じて、自由に楽しむことができる『みんなのもの』なのです」とあります。

 

4 現代的定義におけるスポーツの特徴

ここで注目すべきは、「スポーツとは一部の競技選手や運動に自信がある人だけのものではなく、それぞれの適性や志向に応じて、自由に楽しむことができる『みんなのもの』」だとして、朝の体操から何気ない散歩やランニング、気分転換のサイクリングから、家族や気の合う仲間と行くハイキングに海水浴もスポーツだとされている点です。

以上からすると、スポーツの現代的定義は、プロを含めたトップアスリートが世界一を競うものから、子どもや高齢者の散歩やジョギングまでの活動を大きく包括した概念だといえます。

 

5 コロナ禍とスポーツ

コロナ禍の前には、スポーツとしてスポットライトが当たっていたのは、子どもや高齢者の軽い運動というよりは、トップアスリートのパフォーマンスのような狭い解釈におけるスポーツだったように思われます。

その後、コロナ禍が拡大し、緊急事態宣言が発出され、国民の様々な行動の自粛が要請され、トップアスリートにとってのスポーツは自粛を余儀なくされました。

ところが、緊急事態宣言による自粛の対象から、屋外での軽いジョギングや散歩は外され、認められていました。これは、軽いジョギングや散歩といった運動が老若男女を問わず、身体や精神の健康維持・増進のために、人々の生活の中で必要不可欠な行動であると認められた証といえるでしょう。

そして、スポーツの現代的定義によれば、軽いジョギングや散歩もスポーツなのですから、様々な行動の自粛が求められる中で、食べたり、寝たりすることと同様に、人間が生きていく上で不可欠なものとして、スポーツが認められたということになると考えられます。すなわち、コロナ禍によって、スポーツの重要性に焦点が当たったともいえるでしょう。

 

6 おわりに(コロナ禍とスポーツの価値)

スポーツ基本法に規定されたスポーツ権には、スポーツを「する」権利、「みる」権利、「支える」権利が包含されています。

これまで述べてきたように、今回のコロナ禍で、身体や精神の健康維持・増進のために、全国民の「する」スポーツに焦点が当たりました。

そして、歴史上の多くの感染症が収束したように、ある程度の時間を経て、コロナ禍も収束するでしょう。そのときには、トップアスリートのパフォーマンスを満喫することができるようになるはずです。それは、トップアスリートにとっての「する」スポーツ、その他の人々にとっての「みる」「支える」スポーツの復活ともいえます。

そうだとすれば、コロナ禍が収束したときには、一般的な国民にとっての「する」スポーツに、トップアスリートにとっての「する」スポーツやその他の人々にとっての「みる」「支える」スポーツが加わり、このことでスポーツの価値を人々が再認識し、全体としてスポーツの価値は高まっていくと考えられるのではないでしょうか。

 

 

 

証拠集めのススメ ~暴言・パワハラ事案において~

1  はじめに

不幸にも、スポーツの指導者の暴言やパワハラによって、精神的苦痛を被り、病院に通わざるをえなかったり、そのスポーツをやめざるを得なかったりすることがあります。

被害に遭われた方には、先ずは心身の回復を目指していただきたいと思います。そして、被害に遭われた方の多くは、指導者に対し然るべき処分をして欲しいと考えることと思われます。

本稿では、適正な処分を実現するために注意すべきことについて、証拠を中心に述べていきたいと思います。

 

2  事実認定と証拠

ある人を処分する場合に、処分の対象となる事実の認定は、原則として証拠に基づかなければなりません。というのも、その人に不利益な処分を科すためには、間違いがあってはならず、そのため確たる証拠に基づかなければならないからです。

ただし、処分の対象となる行為者が自由な意思に基づいて事実を認めている場合は、そのような間違いが生じないことから、例外的に証拠に基づくことなく、事実を認定することができます。

したがって、どのような事案でも、行為者が事実を認めない限りは、証拠が必要となります。

 

3 証拠の多寡

事案によって、証拠が豊富にあったり、反対に証拠が少なかったりすることがあります。

たとえば指導者の暴力により怪我を負ったという事案では、暴力を振るった上に怪我までさせているため、事実の痕跡である証拠が比較的残り易いといえます。

ところが、暴言やパワーハラスメント(パワハラ)がなされた場合では、事実の痕跡が残りにくく、実際に目ぼしい証拠がないことが多いといえます。

このように事案の性質によって証拠の多寡の傾向はありますが、結局は事案ごとに証拠の多寡は異なることになります。

そして、証拠は多いに越したことはありませんが、より重要なのは個々の証拠の価値です。証拠の価値は、一般的にその証拠がどの程度信用できるか(信用性)やその証拠と立証すべき事実とどの程度関連するか(関連性)等によって決まるとされています。以下では、証拠の信用性を中心に具体的に検討します。

 

4 目撃証言

たとえば、ある人が、当該行為をたまたま目撃していたとします。

被害者としては、目撃者がいるなら、事実はその人が明らかにしてくれると考えるのが通常と思われます。このように目撃者が当該行為について証言してくれれば、これが証拠となります(目撃証言)。

しかし、実際には、目撃者が行為者の行為について進んで証言をしてくれることは多いとはいえず、目撃者の協力を得るのは簡単ではありません。トラブルに巻き込まれたくない、行為者の逆恨みが心配される、目撃はしたものの証言できるほど明確に記憶していない等の事情があり得るからです。

 

5 目撃証言の信用性

仮に目撃証言が得られたとしても、残念ながら目撃証言は信用性が高いとはいえず、証拠として万全とはいえません。

その理由は、①人の証言には誤りが入り易いこと、②目撃者と行為者又は被害者との人的関係によって証言の内容が変わり得ることにあります。

①については、目撃証言は知覚、記憶、叙述という過程をたどりますが、事実を知覚・認識する際に誤りが入る可能性があり(見間違い、聞き間違い)、その認識を記憶する際に誤りが入る可能性があり(覚え間違い)、その記憶を叙述・表現する際に誤りが入る可能性がある(言い間違い、書き間違い)からだとされています。

②については、目撃者が、行為者あるいは被害者に人的関係が近い場合には、目撃証言がその者に有利な証言内容となり易く、反対に行為者や被害者と敵対関係にある場合には、目撃証言がその者に不利な証言内容となり易いためです。

 

6  録音・録画記録

処分の対象となる事実に関する証拠として目撃証言しかなく、なおかつ行為者が否認しているような場合には、目撃証言の信用性を中心とした証拠価値を精査しなければなりませんが、事実の認定は難航せざるを得ません。

それでは、どのような証拠があればより事実の認定に役立つのでしょうか。

これは皆さん方も納得いただけるところかと思いますが、処分の対象となる行為者の言動を録音又は録画した記録(録音・録画記録)があればよいといえます。録音・録画記録は、目撃証言のように誤りが入る可能性が類型的に少ないといえますし、人的関係に原則として左右されないといえるからです。もちろん、録音・録画記録も改ざんしようと思えばできますが、信用性という点では目撃証言よりも格段に高いといえます。

 

7  秘密録音・録画の適法性

当該行為を録音したり、録画したりしたものの、行為者に知らせずに録音や録画したため、その違法性について心配される方も多いと思います。いわゆる秘密録音・録画といわれるもので、たとえば、行為者の承諾なしに、ポケットの中のスマホで録音するとか、友人に頼んで撮影してもらうなどのケースがあります。

秘密録音・録画は、原則として違法性があるとはされておりませんので、秘密録音・録画のデータを証拠とすることに問題はありません。

したがって、当該行為の録音・録画データがあるのであれば、迷わず提出して、事実認定に役立ててもらえばよいと思います。

 

8 証拠に乏しいとき

そうは言っても、録音・録画データなどの決め手となる証拠がないということも多いと思います。

パワハラや暴言に苦しんでおられる方には言いづらいのですが、そのようなときの対処法として、もう少し我慢をしていただいて、行為を録音や録画していただきたいのです。その場合、上に述べたように、行為者の承諾を得る必要はありません。

重要なのは、その行為自体を録音・録画することです。なぜなら、行為自体ではなく、その前後の行為が録音・録画されていたとしても、その証拠の価値はかなり下がってしまうからです(関連性の問題)。

 

9 おわりに

私は、スポーツ団体において、指導者等の処分をする委員会の委員を務めておりますが、被害者が勇気を出して暴言やパワハラの告発をしたとしても、証拠の乏しさゆえに事実認定の困難であることも多々あります。

このようなことを避けるためにも、もし本稿を読まれた方が、指導者の言動に関して、「これってもしかしてパワハラ?」「今の発言は暴言?」と感じられ、少しでもその指導者への信頼が揺らぎ始めたら、その行為を録音・録画することをお勧めします。指導者との信頼関係があるので、なかなか秘密録音・録画に踏み切れないかも知れませんが、取り返しのつかない事態に陥ることを避けるためにも一考していただけるとよいと思います。

 

 

 

スポーツ団体の決定に対する不服申立について

1 はじめに

よく受ける相談として、「スポーツ団体の決定に不服があるのですが、どのようにすればよいですか」というものがあります。ここでの「決定」には様々なものがあり、たとえば、不利益処分、代表選考基準、同基準に基づく選考結果、役員人事、規則や規程の制定・改定などです。

このような相談をされる方は、スポーツ団体の外部から、その決定に不服があるため、決定を取り消させたり、変更させたりしたいと思っておられる方が殆どでしょう。

したがって今回は、スポーツ団体の決定に対する不服申立の方法と申立によって決定を変えられるかという観点から検討したいと思います。

 

2 スポーツ団体に認められる裁量

不服申立について述べる前に、スポーツ団体の決定とその裁量について説明しておきます。

スポーツ団体は、その団体に関わる事項について、「一定の範囲内での判断や行為の選択ができること」、すなわち「裁量」を有しています。裁量の範囲について、スポーツ団体によって異なるものの、一般的には、スポーツ団体の自立性や専門性から、ある程度広範に認められています。

このようにスポーツ団体が決定をする際にもある程度広い裁量が認められるため、決定に対し不服を申し立てても、余程の根拠がない限り取り消されたり、変更されたりしないといえます。

 

3 誰でもできる意見を述べる方法

スポーツ団体の決定について外部から意見を述べる方法として、スポーツ団体に対して意見を記した書面を送付したり、SNSやブログ等で自らの意見を発信したりすることが考えられます。これらの方法は原則として誰でもできます。

このような意見の内容が合理的であり、スポーツ団体の納得を得られる限りで、その決定が変更される可能性があります。

もっとも、スポーツ団体には、表明された意見に対し何らかの対応や応答をしなければならないという法的根拠もありません。とはいえ、SNS等で意見を表明し賛同者を多数得られれば、スポーツ団体としても何らかの対応をせざるを得なくなることもあり得ますし、書面をスポーツ団体に送付する場合に、弁護士名義であれば、スポーツ団体が対応や応答をすることが多いといえます。

仮にスポーツ団体が対応を迫られたとしても、前述したように、スポーツ団体はその決定に関し裁量を有していることから、その意見を受けて決定を変更することはごく稀だといえるでしょう。

 

4 スポーツ団体の不服申立制度を利用する方法

スポーツ団体に決定に対する不服申立の制度があれば、そこに申し立てることもできます。

このような制度は大抵その利用者は限定されており、誰でも不服申立ができるわけではないので、スポーツ団体の当該制度の規定等を確認する必要があります。

そして、利用できる立場にあったとしても、その他のスポーツ団体が決めた申立の要件を満たさなければなりませんが、これらがクリアされて有効に申し立てられれば、スポーツ団体は必ず何らかの対応をしなければなりません。

ただし、これまでも述べてきたように、スポーツ団体には裁量が認められますから、必ずしも決定が取り消されたり、変更されたりするわけではないことに注意が必要です。

 

5 スポーツ仲裁を利用する方法

不服申立の手段として、スポーツ団体の外部組織を利用することも考えられます。

利用しやすいのがスポーツ仲裁であり、国内の仲裁機関として(公財)日本スポーツ仲裁機構(JSAA)があります。

ただし、JSAAへの申立ては、誰でも、どのような不服でも、申し立てられるわけではありません。

すなわち「競技者等」が「競技団体」に対し、その「決定」に不服があるときで、「仲裁合意」がある場合に限り、申立ができるのです(スポーツ仲裁規則第2条参照)。

先ず「競技者等」とは、スポーツ競技における選手、 監督、コーチ、チームドクター、トレーナー、その他の競技支援要員及びそれらの者により構成されるチームをいい、競技団体の評議員、理事、職員その他のスポーツ競技の運営に携わる者を除く(同規則第3条第2項)とされています。

また、「競技団体」とは、日本オリンピック委員会(JOC)、 日本スポーツ協会(JSPO)、日本障がい者スポーツ協会、各都道府県体育・スポーツ協会、及びこれらの加盟団体等(同規則第3条第1項)とされています。

加えて、スポーツ仲裁は、あくまで仲裁手続ですから当事者双方の仲裁パネルへの付託に関する合意である「仲裁合意」を要します。なお、競技団体によっては自動応諾条項(競技団体が申立てに応じて自動的に応諾するとの条項)を規定している場合もあるので確認してみて下さい。

少し専門的になりますが、争う対象の「決定」について、スポーツ団体が幾つかの決定をしていた場合に、どの決定を争うのかということも戦略的には重要となります。

実際のJSAAの仲裁判断をみてみると、代表選考を選手が争うケースや不利益処分を受けた選手やコーチ等がその処分を争うケースが多いといえます。もっとも、先に述べたようにスポーツ団体に裁量が認められるため、必ずしも決定が取り消されるわけではないことはこれまでの不服申立の方法と同様です。

 

6 裁判所に訴える方法

裁判所に訴えられないかと考える方も多いと思います。

提訴は、原則として誰でもできますが、コストと時間がかかることと、裁判所に門前払いされる可能性があること、これまで述べた方法と同様にスポーツ団体には裁量があることから、方法として採りづらいといえます。

ここで、門前払いについて説明を加えると、スポーツ団体には一定の自立性が認められ、内部のことは内部で解決することが妥当であると考えられるため、裁判所は決定の内容まで踏み込んで判断せずに門残払いしてしまうことが少なくありません(部分社会の法理、法律上の争訟性の欠如)。

それでも、裁判が有効であるケースもありますので、個別に検討していただければよいでしょう。

 

7 団体内部から変えていく方法

これまでは外部からスポーツ団体の決定を変える方法について検討してきましたが、自ら又は考えを同じくする人をスポーツ団体の役員として送り込み、その意見を反映させ、スポーツ団体の内部から変えていくということもあり得ます。この方法は迂遠なようにみえますが、スポーツ団体のあり方から根本的に変えていくことができます。

しかしながら、役員選考方法について明らかにしていないスポーツ団体が大多数であり、仮に役員選考方法のルールが明らかとなっていたとしても、役員人事についてもスポーツ団体に広範な裁量が認められることからすると、役員を送り込んで内部から変えていくことも決して簡単なことではないといえるでしょう。

 

8 おわりに

繰り返し述べてきたように、スポーツ団体の決定に対して不服申立をしたとしても、スポーツ団体にはその決定をするに際しても裁量が認められるため、決定を取り消したり、変更したりすることは困難であるといわざるを得ません。

とはいえ、下記のような場合には決定を覆すことができる可能性があります(スポーツ仲裁の判断基準)。

①スポーツ団体の決定がその制定した規則に違反している場合

②規則には違反していないがその決定が著しく合理性を欠く場合

③決定に至る手続に瑕疵(「かし」、不備と同義)がある場合

④スポーツ団体の規則自体が法秩序に違反し若しくは著しく合理性を欠く場合

以上のように、スポーツ団体の決定を争うことは簡単なことではありませんが、是非とも諦めずにトライして下さい。

 

 

 

 

 

スポーツ中のプレイヤー同士の事故に関する注目すべき判例について

1 はじめに

スポーツ中のプレイヤー同士の事故についての注目すべき判例として、バドミントン事故判決( https://gohda-law.com/blog/?p=632 参照)を紹介させていただきましたが、これとは別の事件に関する、注目すべき判例を紹介します。なお、本件は、2審から私が控訴人(原審原告)代理人を担当させていただき、2審で確定しています。

 

2 事案の概要

自治会の運動会で自転車リングリレー競技(自転車のリングホイールを金属製のスティックを使って転がし早さを競い合う競技、以下「本件競技」)の最中、女性が、男性に衝突されて転倒し、頭部を地面に打ち付け、救急車で搬送され、その後、脊椎捻挫、全身打撲、末梢神経障害との診断を受けました(後遺障害はありませんでした)。そこで、女性は男性に対し、209万円余の損害賠償を求めて提訴しました。

 

3 リングリレー1審判決(さいたま地方裁判所判決平成30年1月26日(平成28年(ワ)第909号)LLI/DB等)

1審判決は、原告の請求を棄却しました。その理由において、「本件競技はスポーツの一類型というべきであり、本件事故は、その過程で生じたものであるところ、スポーツの参加者は、一般に、そのスポーツに伴う危険について承知しており、その危険の引受けをしていると解されるから、当該スポーツ中の加害行為については、加害者の故意・重過失によって行われたり、危険防止のためのルールに重大な違反をして行われたりしたような特段の事情のある場合を除いて、違法性が阻却される」との規範を定立し、原告が「本件競技の性質やルールを熟知していた」ことをもって「本件競技に伴う危険について承知しており、その危険を引き受けしていたというべきである」とし、特段の事情を認めることもできないとして、被告に法的責任があるとはいえないとしました。

さらに、判決は「結局、本件競技は、競技者がスティックからリングが離れないように注意しながらできるだけまっすぐ進もうとするが、なかなかうまくいかないという点に醍醐味のあるものであるところ、本件事故は、原告と被告の双方とも、衝突するまで相手に気づかず、互いに前方不注視だったために発生した不幸な事故であり、本件競技に内在する危険が発現したもの」としています。

 

4 1審判決の評価

(1) 1審判決の規範について

1審判決は、スポーツ中のプレイヤー同士の事故について、危険の引受けを理由に原則として違法性を阻却するとしつつ、例外的に、①加害者に故意・重過失あった場合、②危険防止のためのルールに重大な違反をして行われたなどの特段の事情がある場合には、違法性を阻却しないという規範を定立しています。

しかし、このような規範を定立した根拠が明らかではありません。たとえば、特段の事情において、①に過失を含めなかった根拠や②で危険防止のためのルールに反していた場合について「重大な」ものに限定する根拠が不明です。

また、スポーツの各競技の個別具体的な特性や状況を比較検討することなく、一律に、スポーツのあらゆる危険を引き受けているとするのは無理があると思います。

さらに、この規範によれは、危険防止のためのルールの軽微な違反が認められ、なおかつ過失によって、相手方を死亡させたとしても、違法性を阻却することになり、これは結果の妥当性を著しく欠くことになるのではないでしょうか。

(2) 危険の引受の根拠について

1審判決が、原告において「本件競技の性質やルールを熟知していた」ことをもって、「本件競技に伴う危険について承知しており、その危険を引き受けしていたというべきである」とするのにも、論理の飛躍があると思われます。判決では、これまで本件競技において傷害を負う事故が多発していたといった事情が認定されていない以上、「本件競技の性質やルールを熟知していた」ことはむしろ本件競技が安全であるとの認識があったとして、危険を引き受けていなかったとするのが自然なのではないでしょうか。

(3) 「競技の醍醐味」「不幸な事故」について

さらには1審判決が「結局、本件競技は、競技者がスティックからリングが離れないように注意しながらできるだけまっすぐ進もうとするが、なかなかうまくいかないという点に醍醐味のある」とした点、「本件事故は、原告と被告の双方とも、衝突するまで相手に気づかず、互いに前方不注視だったために発生した不幸な事故」とした点について、論理的な判断内容とは到底いえないと思われます。なお、控訴人(原審原告)はこの部分をもって控訴を決断したといっても過言ではありません。

 

 

5 リングリレー 2審判決(東京高等裁判所判決平成30年7月19日(平成30年(ネ)第1024号))

2審判決では、控訴人(原審原告)の請求の一部(10万円)を認容しました。

「スポーツ競技中であるからといって、自らの位置方向と付近の状況を可能な限り随時確認して、他の競技者との衝突を回避するように注意すべき一般的な注意義務が存在することを否定することはできない。」「本件競技がスポーツの一類型であることからすると、そのルールないしマナーに照らし社会的に許容される一定範囲内の行動は違法性が阻却されると解し得るものの、親睦目的で行われた本件競技の前記の性質に照らすと、その範囲となるのは、ごく軽度の危険や衝突にとどまるといわざるを得ない。」そして、衝突回避が可能であったと認め、衝突を回避すべき注意義務違反があったとし、また、社会的に許容される範囲内とはいえないとして、違法性が阻却されないとしました。

さらに、「他者との衝突を回避するというのは、道路で歩行する場合等も含め、日常的に広く認められる基本的注意義務というべきであって、チームごとの順位をつける競技であるとはいえ、本件競技が競技者同士のボディコンタクトを予定したものではないことからすると、一般的な衝突回避義務がおよそ免除されていたと解することはできない。」

違法性阻却について、「スポーツ競技中、ルール違反さえなければ常に違法性が阻却されるとは解することはできず、当該スポーツの性格や事故の生じた具体的状況に即して検討すべきところ、幅広い参加者が親睦目的で参加するといった本件競技の性格に鑑みれば、本件競技に内在している危険として違法性が阻却されるのは、ごく軽度の危険や衝突に限られると解するのが相当である。」

「被控訴人は、競技者同士が対向して走行するといった形式で本件競技が行われたことにより危険が高まったと指摘して、主催者の側で、これを前提とした安全対策を講じるべきであって、競技参加者に損害分担の責任を負わせるべきではない旨主張する」が、被控訴人が回避可能であったといえる上、主催者の責任と競技者の責任とは択一的な関係にはないから、主催者の損害賠償責任の有無にかかわらず、その責任を免れない。

 

6 2審判決の評価と若干の私見

(1) スポーツ中の衝突回避義務について

2審判決が、「スポーツ競技中であるからといって、自らの位置方向と付近の状況を可能な限り随時確認して、他の競技者との衝突を回避するように注意すべき一般的な注意義務が存在することを否定することはできない」として、「他者との衝突を回避するというのは、道路で歩行する場合等も含め、日常的に広く認められる基本的注意義務というべき」としている点に大きな意義があると考えます。

判決では、スポーツ中といっても、他者に傷害を負わせるような衝突を避けるべき基本的注意義務があるとしているのです。スポーツ中の注意義務を考える場合、スポーツ中のプレーの萎縮(加害者のスポーツ権)とスポーツ中の安全性(被害者のスポーツ権)との比較衡量になりますが、生命身体の重要性からして、後者を優先させるべきことは明らかだといえるのではないでしょうか( https://gohda-law.com/blog/?p=632 参照)。もっとも、私は、スポーツ中の全ての傷害について、責任が生じると主張しているのではありません。あくまで、注意義務違反があった場合に限られるのであって、だからこそ、注意義務違反の有無の判断が重要となるのです。

 

(2) 社会的に許容される範囲の認定について

2審判決は、「本件競技がスポーツの一類型であることからすると、そのルールないしマナーに照らし社会的に許容される一定範囲内の行動は違法性が阻却されると解し得る」としつつも、「スポーツ競技中、ルール違反さえなければ常に違法性が阻却されるとは解することはできず、当該スポーツの性格や事故の生じた具体的状況に即して検討すべき」としています。これは、通常想定できる危険の範囲内であれば違法性を阻却し、その範囲を超えた場合には違法性を阻却しないとする通常想定内免責説(  https://gohda-law.com/blog/?p=593 参照)と同様に、一定範囲内であれば違法性を阻却するという見解(「限定免責説」といいます)を採用しています。

そして、これまで限定免責説を採用する判例では、後遺障害が残るような重度の傷害については、社会的に許容される範囲あるいは危険を引き受けている範囲を超えているとして、違法性を阻却しないとすることが多かったといえますが、本件2審判決では、限定免責説を採用しつつも、被害者に後遺障害が残らなかった本件においても一定範囲を超えているとして、違法性阻却を認めず、損害賠償責任を認めた点に大きな意義があるといえます。2審判決の認容額は10万円ですが、1審判決のように違法性が阻却され0円となるのと、違法性を阻却せず過失を認めて10万円の支払を認容するのとでは、その法的意義において雲泥の差があることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

なお、私は、スポーツ中のプレイヤー同士の事故について、スポーツをする人は一定程度危険を引受けているとしても、違法性阻却を検討するのではなく、過失の判断の中で検討すべきであり、ルール内免責説も通常想定内免責説も採用すべきではないと考えます。というのも、通常危険を引き受けているとする範囲の判断が困難なこと、きめ細やかな判断ができる過失の要素として検討すれば足りること、生じた結果から遡ってその違法性阻却の有無を判断することは結果責任に類する考え方であることから妥当でないと考えられるからです( https://gohda-law.com/blog/?p=632 参照)。

 

7 おわりに

上述したように、リングリレー2審判決の意義は、スポーツ中であってもコンタクトスポーツでない場合には他者に傷害を負わせないように衝突を回避する義務があること、そして、スポーツ中に社会的に許容される行動の範囲や通常想定される危険の範囲を従来よりも狭く解したことにあります。

私は、バドミントン事故判決やリングリレー2審判決を通じて、裁判所が損害を公平な分担すべく、従来よりも被害者救済に重きを置きはじめたことは間違いないと考えます。

 

 

指導者による暴力等の不適切な行為をなくすために④ ~「人間力なくして競技力向上なし」の本当の意味~

 

1 はじめに

「人間力なくして競技力向上なし」という言葉(スローガン)があります。尤もな言葉として皆さんは受け取られていることと思います。

競技力が向上すれば、人格が形成されたり、人間的に成長したりすること(以下まとめて「人間力の向上」)は、経験的に私たちが知るところだと思います。アスリートが絶え間ない努力を重ね、自らに厳しいトレーニングを課し、鍛錬の中で学びを得て、それが人間力の向上につながれば、これほど素晴らしいことはないでしょう。

ただし、私は、このスローガンについて気を付けなければならない点があると考えています。それは、指導者が、このスローガンを、人間力の向上がなければ競技力が向上しない、すなわち、人間力の向上が競技力の向上の必要条件のように考えてしまうことにあります。

 

2 人間力の向上が競技力の向上の必要条件か

人間力の向上が競技力の向上の必要条件かといえば、そのようなことはないと言わざるを得ないと思います。すなわち、アスリートの人間力の向上がなくても、競技力が向上することはあり得るということです。

競技力の向上に伴い人間力が向上することはよくあることで理想的なことといえますが、人間力の向上が競技力の向上の必要条件とまでは考えるべきではないのです。

そうだとすれば、このスローガンは「人間力の向上は競技力の向上につながる可能性が高い」という意味だと捉えるべきではないでしょうか。

そして、より重要であるのは、このスローガンが誰に向けられたものか、という点です。

 

3 指導者にとってのスローガン

たとえば、街のクラブチームの監督やコーチがこのスローガンのもと、子供たちの指導をするとします。スローガンを文字どおりに捉えれば、人間力の向上がなければ競技力が向上しないので、先ずは人間力を向上させないといけないということになります。子供たちの人間力を向上させるには、いけないことをしたら、ときに叱り、戒め、諭さなければなりません。

ところが、街のクラブチームの監督やコーチには、懲戒権がないのです( https://gohda-law.com/blog/?p=615 参照)。懲戒をせずに、子どもたちの人間力を向上させることは相当難しいことといえます。

人間力の向上は、本来、家庭において親権者が、あるいは学校において教育のプロである教員がなすべきであり、親権者でもなく、懲戒権を有しない、いわば教育の素人である第三者が、スポーツ指導において目標とすべきものではないと考えます。

それにもかかわらず、このスローガンを誤解して、人間力を向上させなければならないとして、懲戒権を有しないのに懲戒をしたり、それが行き過ぎて暴力を行使したり暴言を吐いてしまったりすることが懸念されるのです。

したがって、このスローガンは、指導者によって、指導の内容として実践されるべきものではない、すなわち指導者に向けられたものではないと私は考えます。

 

4 アスリートにとってのスローガン

多くの一流アスリートが語るように、真の競技力の向上には人間力の向上も必要な要素といえそうです。また、アスリートが不祥事を起こしてしまい自らのキャリアをふいにすることを防止し、現役を引退した後の人生を充実して生きるためにも、人間力の向上は必要なものでしょう。

そうだとすれば、このスローガンは、指導者によって他律的に実現されるべきものではなく、アスリートによって自律的に実現されるべきものであり、アスリートに向けられたものであるといえます。

 

5 まとめ

私は、このスローガンは、アスリートにとって、人間力の向上は競技力の向上につながる可能性が高いので、人間力の向上に努めましょう、という意味に捉えるべきだと考えます。

そして、指導者は、自立したアスリートの育成やスポーツを楽しめるアスリートを育てることを第一の目標としつつ、結果的にアスリートの人間力の向上があれば、それはそれで素晴らしい副次的成果が得られたと考えるべきだと思います。

 

 

スポーツ事故の被害者の方々へ ~バドミントン事故判決を踏まえて~

1  はじめに

私が訴訟代理人として一審及び控訴審を担当しましたバドミントン中のプレーヤー同士の事故について、10月29日付け讀賣新聞朝刊にコメントを掲載していただきました。この讀賣新聞の記事を契機として、さらに本件が各社により報道され、大きな話題となっています。

 

そして近時、本件以外の、私が訴訟代理人を担当しましたプレーヤー同士のスポーツ事故案件においても、被害者の損害賠償請求を認める東京高等裁判所の判決を得られました( 東京高判H30.7.19(H30(ネ)1024)、確定)。

 

私の考え方に対し裁判所によるお墨付きをいただいたことはとても喜ばしく思う一方で、報道における私のコメントも紙幅の関係からかなり言葉足らずとなっておりますので、ここで改めて説明を加えさせていただくと共に、スポーツ事故の被害者の方々へ向けてメッセージを送らせていただきたいと思います。

 

2 プレーヤー同士の事故

これまでスポーツ中のプレーヤー同士の事故においては、スポーツ中の事故を特別視し、スポーツ中の事故というだけで、被害者の損害賠償請求が認められないことが多かったといえます。このことが原因で、被害者が泣き寝入りをせざるをえなかった事案は相当数にのぼると考えられます。

これに対して私は、従前から、スポーツ中のプレーヤー同士の事故について、加害者に注意義務違反があれば、違法性を阻却する(違法性を無くする)ことなく、被害者の損害賠償請求が認められるべきあること主張させていただき、本欄でも述べさせていただいておりました( https://gohda-law.com/blog/?p=523 )。

私の依頼者も、何人もの弁護士に相談しても損害賠償請求は難しいと言われ、半ば諦めかけたところで、私の事務所に辿り着いた方が少なからずいらっしゃいます。

 

3 プレーヤー同士の事故における違法性阻却説

弁護士が損害賠償請求について難しいと回答する理由としては、プレーヤー同士の事故においては「著しくルールに反しない限り違法性が阻却される」(違法性阻却説)と考える法曹が少なからずおられることにあると思います( https://gohda-law.com/blog/?p=523 ママさんバレーボール事故判決 参照)。

しかし、スポーツ中の事故であっても、加害者であるプレーヤーに注意義務違反があれば、損害賠償責任を負うという、いわば当たり前の考え方が漸く裁判でも認められ始めたのです。

 

4 批判に対して 

この考え方に対し、よく聞かれる批判は、このような請求が認められるのであれば、思い切ってプレーをすることができずプレーを萎縮させる、ひいては加害者も含めたプレーヤーのスポーツをする権利やスポーツに親しむ権利を侵害する、というものです。

本当にそうでしょうか。

先ず、スポーツをする権利やスポーツに親しむ権利を主張する前に、他者を傷つけてはならない、あるいは傷つけないように注意しなければならない、ということは当然のことではないでしょうか。

そのような注意義務を前提とすれば、人を傷つければ、原則として違法となるのであり、よほどの特別な事情がない限り、違法性が阻却されることはないと考えるべきです。

次に、加害者や一般的なプレーヤーにおける思い切ってプレーできずプレーを萎縮させるという意味でのスポーツ権の侵害と、被害者における事故による全損害の負担や傷害によって被害者はプレーそのものができなくなるという意味でのスポーツ権の侵害を比べてみれば、後者の侵害が遥かに深刻で、後者のスポーツ権を優先的に保護すべきであることは明らかであると思います。

 

5 加害者のスポーツ権と被害者のスポーツ権

スポーツ権の保障について、本件の一審(東京地判H30.2.9、判例秘書L07330064、Westlaw 2018WLJPCA02096006)は、
「ルールに著しく反しない行為である以上、どのような態様によるものであってもそれによって生じた危険を競技者が全て引き受けているとはいえないことは明らかである。……ルールに著しく違反しない限り、違法性が阻却されると解することは相当ではない」
とし、
「一定の危険を伴うスポーツの競技中に事故が発生した場合に常に過失責任が問われることになれば、国民のスポーツに親しむ権利を萎縮させ、スポーツ基本法の理念にもとる結果になるから、本件については違法性が阻却されるべきである」
との加害者側の主張に対し、
「結果回避可能性が認められる場合についてまで、スポーツ競技中の事故であるからといって過失責任を否定することは、スポーツの危険性を高めることにつながりかねず、国民が安心してスポーツに親しむことを阻害する可能性がある」
としています。

 

6 判決の評価と報道について

私ごときが判決を評価するなどおこがましい限りですが、一審の判決書の上記箇所を読んだ時の感動は忘れられないものがあります。長らく我々原告側が訴えてきた主張を正面から認めてくれたからです。その意味で、一審判決は画期的な判決であり、控訴審判決に劣らない先例的価値があると思います。

そして繰り返し私が主張してきました、スポーツ中のプレーヤー同士の事故においては、原則として違法性は阻却しないとした上で、損害の公平な分担の見地から、過失割合の判断の中で様々な事情を考慮して加害者の責任について判断すべきであるという考え方が採用されたものと考えています。

控訴審においては、このような考え方を前提として、過失割合を検討したところ、被害者には過失がなく、過失相殺をすることは相当ではないとしたため、認容額は増え、より被害者救済に資する判決となっています。

ただ、報道においては、控訴審が過失相殺をしなかったことだけが大きくクローズアップされる傾向があり、このままでは過失割合の話に終始し、上記画期的判断の意義について、見失われかねないことを懸念しています。

 

7 控訴審判決書(東京高判H30.9.12(H30(ネ)1183))について

控訴審判決(東京高判H30.9.12(H30(ネ)1183))については、裁判所ホームページの裁判例情報( http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/216/088216_hanrei.pdf )及び各種判例検索サイトに掲載されておりますので、ご参照ください。

なお、上記のように、控訴審判決は基本的には一審判決を踏襲した上で、過失相殺について

「損害の公平な分担の見地から、本件事故により生じた被控訴人(被害者)の損害の一部を同人に負担させるべき事情が同人側に存在すると認めるに足りる証拠も見当たらないから、過失相殺ないし過失相殺類似の法理により本件事故により生じた被控訴人の損害の一部を同人に負担させる理由はないというべき」

としています。

 

8 保険・補償制度について

先にスポーツにおけるプレーの萎縮について触れましたが、プレーの萎縮を避けて一般プレーヤーのスポーツ権を確保しつつ、被害者の救済及びそのスポーツ権を保障することをも考えるならば、保険制度や補償制度の整備について真剣に検討すべき時が来ているのではないでしょうか。
国も、スポーツ基本法において、スポーツ立国を標榜するのであれば、スポーツにおける保険制度や補償制度について、国を挙げて早急に検討・対応すべきだと強く思います。

 

9 最後に

プレーヤー同士の事故に限らず、スポーツ事故において傷害を負わされた被害者の方々へ向けて、以下の言葉を贈りたいと思います。

「決して諦めないで下さい。容易い道ではありませんが、裁判所の門戸は開いています。」

 

 

 

 

「指導者による暴力等の不適切な行為をなくすために③〜体罰と暴力等不適切行為〜」

1 はじめに

「指導者による暴力等の不適切な行為をなくすために」と題し、第1回目は「相談件数の増加について」、第2回目は「暴力等不適切行為とその行為者類型」を述べてきました。

 

今回は、これまで述べてきた「暴力等不適切行為」と対比しながら、「体罰」に焦点を当てます。一般に、「体罰」は、「暴力等不適切行為」とほぼ同じ意味で使われています。しかし、法的には、両者は異なるものだといえます。今回はこのことを詳しく説明していきたいと思います。

 

2 体罰とは

「体罰」という文言は、学校教育法11条「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」に登場します。

 

この規定から、校長や教員(以下、「教員等」)は懲戒権を有していること、教員等は「体罰」を加えてはならないことが分かります。これらのことから、「体罰」は、行為者に懲戒権を有することを前提として、懲戒権の範囲を超えた行為に使われる文言だということになります。

 

ここで「懲戒権」についても触れておきます。そもそも「懲戒」とは、不当・不正な行為を再び繰り返さないよう制裁を加えることをいいます。そして、法律上、懲戒をする権限である「懲戒権」を有するのは、教員等および親権者(民法822条)のみです。したがって、教員等が教育の一環として懲戒を加えること、あるいは親権者が子の監護・教育の一環として自らの子に懲戒を加えることはできても、それ以外の者は一切の懲戒をすることができないのです。

 

スポーツの現場で、たとえば部活動において教員等が指導者として懲戒権を行使することは多々ありえますが、指導者が親権者であり、自らの子のみに監護・教育の一環として懲戒を加えること(他の子に対しては当然懲戒権を有していません)は極めて稀といえるので、本欄では懲戒権を有する者として、教員等のみについて考えます。

 

3  どのような行為が体罰にあたるか

体罰が法的に上記のように考えられるとして、具体的にどのような行為が体罰にあたるのでしょうか。

 

この点について、文部科学省が、通知「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について」(平成19年2月5日初等中等教育局長通知(18文科第1019号))により、以下のように定めています。

「教員等が児童生徒に対して行った懲戒の行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の 発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要があり、その懲戒の内容が身体的性質のもの、すなわち、身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、 蹴る等)、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・ 直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する。」

 

この文科省の「体罰」の定義は極めて分かりづらいものとなっていますが、要は、ある程度の指針は示せるが最終的には事案ごとに状況を踏まえて総合判断しなければならないということです。そしてこの定義を踏まえて、東京都「体罰の定義・体罰関連行為のガイドライン」によれば、教員等による「腕をつかんで連れ歩く」「頭(顔・肩)を押さえる」「体をつかんで軽く揺する」「短時間正座をさせて説諭する」といった行為は、その他に特段の事情がなければ、懲戒権の範囲内であり、体罰には該当しないということになります。

 

4 体罰と暴力等不適切行為との相違

さて、上に述べた「体罰」と前回まで説明してきた「暴力等不適切行為」との相違はどこにあるのでしょうか。

 

ひとつは、同じ行為でも、行為者が懲戒権を有しているか否かにより、体罰であるか否か、が異なります。すなわち、法的には、体罰は懲戒権を有する者しかなしえないのであり、街のスポーツクラブの指導者が暴力を振るっても、それは体罰ではなく、単なる暴力であるということになります。一般的には、懲戒権を有しない指導者の不適切な行為を体罰と表現されることも多いですが、法的に厳密に言うと、正しくないということになります。

 

もうひとつは、教員等の行為が、懲戒権の範囲内であり、不適切といえない場合でも、懲戒権を有していない者が同様の行為を行えば、それは不適切であるとされる可能性があるということにあります。よって、懲戒権を有しない指導者の不適切な行為の範囲は、体罰とされる行為の範囲を包含する、より広い範囲であると言えます。

 

5 まとめ

重要なことは、懲戒権の範囲内であるとされる、教員等による「腕をつかんで連れ歩く」「頭(顔・肩)を押さえる」「体をつかんで軽く揺する」「短時間正座をさせて説諭する」などの行為も、懲戒権を有しない指導者が行った場合、不適切な行為とされる可能性があるということなのです。このことから、懲戒権を有しないクラブチームの指導者は、その意味で教員等よりも指導として行える行為の範囲は狭く、被指導者に対して制裁(懲戒)を加えることはできないということを肝に銘じなければなりません。

 

次回も続いて、この問題について検討したいと思います。

 

 

 

 

民事法上の違法と刑事法上の違法

1 日大アメフト事件に関して、数社の報道機関から取材を受けました。取材の主題は、タックルをした日大選手に、刑事責任あるいは民事責任が生じるか、というものでした。

記者の方の取材に応じる中で、「違法の相対性」や「法秩序の統一性」について、説明する必要性を痛感しました。

 

2 ある行為に関して、民事法上の責任と刑事法上の責任とが各別の手続きにより問われ、結果的に、民事法上の責任の有無と刑事法上の責任の有無とが一致しない場合があります。

このような相違は、民事法における違法の評価と刑事法における違法の評価との不一致が原因のひとつとなっていることがあります。

では、そもそも、このような違法の評価の不一致が許されるのでしょうか。

 

3 法秩序は可及的に統一的であるべきことを理由として、民事法における違法の評価と刑事法における違法の評価とは一致すべきであるべきだという主張があります。

しかし、民事法における要件・効果と刑事法における要件・効果が異なること、刑事法の補充性・謙抑性として刑罰は最後の手段として補充的に用いられるべきであることからして、違法の評価はできるだけ統一的であることが望ましいものの、民事法で違法と評価されても、刑事法では違法と評価されないこともあり得ると考えるべきです。

なお、民事法上は適法であっても、刑事法上は違法であることを認める立場もありますが、刑法の補充性、謙抑性から、少数説に止まっています。

 

4 以上に述べたことを、日大アメフト事件に関連して検討をしてみます。

実際には、日大選手は、クォーターバックに怪我をさせようとして(本人の記者会見でそのように述べています)反則行為であるタックルに及んでいるため、民事法上も刑事法上も違法であると評価され、責任を負う可能性が高いといえます。

これに対して例えば、日大選手が、クォーターバックがパスをした直後に怪我をさせる意図(故意)がなくタックルをして怪我をさせてしまった場合で、日大選手はタックルをすることを避けようと思えば避けられたケースでは、どうでしょうか。

このケースについて民事法上の責任を考えると、日大選手はパスをした直後とはいえ、ボールを持っていないクォーターバックにタックルしており、その上タックルを避けようと思えば避けられるケースであるため、違法と評価されて(違法性は阻却されず)、過失も認められ、責任を負う可能性があります。これに対して、刑事法上は、先ほど述べた刑事法の補充性、謙抑性の観点から、違法と評価されず、責任を負わない可能が高いと思われます。

このように、民事法上は違法と評価されても刑事法上は違法と評価されない場面が出てきます。

 

5 市民生活を送る上で、違法と評価される行為は、民事法上も刑事法上も統一的であることは分かりやすいですし、望ましいといえます。

しかし、民事においては殆どの場合に最終的に金銭の支払により解決されるのに対し、刑事においては懲役・禁錮(場合によっては死刑).などの重大な刑罰を科せられることを考えれば、この違法の評価の相対性はやむを得ないものといえるのではないでしょうか。

 

 

 

指導者による暴力等の不適切な行為をなくすために②〜暴力等不適切行為とその行為者類型〜

 前回は、暴力等不適切行為の発生件数や相談件数について述べました。今回は続いて、暴力等不適切行為とは何であるか、暴力等不適切行為に及ぶ行為者の類型について述べます

 

2 暴力等の不適切な行為とは

暴力等不適切行為には、暴力、暴言、ハラスメント、その他の不適切行為がありますが、それぞれについて見ていきます。

(1) 暴力

暴力は刑法上の「暴行」に該当します。そして「暴行」とは、不法な有形力の行使を指し、殴る、蹴る、叩くなどが典型例で、その他にも、髪の毛を切る、部屋の中で日本刀を振り回す、あるいは石を相手に向かって投げつける(石が当たらない場合も含む)などの行為が「暴行」に該当するとされています。このような行為を行えば、暴行罪の成立の要件(構成要件)に該当するため、極めて例外的な事情(正当防衛など)がない限りは、刑法犯として処罰の対象となります。そして暴行の結果、怪我をさせた場合には傷害罪に該当することになります。

因みに、暴行罪の法定刑は2年以下の懲役又は30万円以下の罰金等であるのに対し、傷害罪の法定刑は15年以下の懲役又は50万円以下の罰金となり、ぐっと刑罰が重くなることがわかります。

(2) 暴言

暴言は、原則として刑法犯ではありませんが、言葉による暴力として相手の心を傷つけるものですから、当然に許されません。

暴言の内容については、人格を否定する「お前は本当にバカだな」「人間のクズだ」「きもい」、身体的特徴をけなす「ちび」「デブ」、相手を威嚇する「殺すぞ」「ぶっとばすぞ」「しばくぞ」、自尊感情を傷つける「お前みたいなやつはダメだ」、その他差別的内容の発言などがあります。

(3) ハラスメント

ハラスメントとは、他者に対する発言・行動等が、行為者の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えたりすることを指します。

ハラスメントには多くの種類がありますが、スポーツの現場では、セクシャル・ハラスメント(セクハラ)、パワー・ハラスメント(パワハラ)が主として問題となります。

セクハラとは、相手が不快に思い、又は相手が自身の尊厳を傷つけられたと感じるような性的発言や性的行動を指します。

パワハラとは、地位や人間関係などの優位性を背景に、上下関係の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は周囲の環境を悪化させる行為を指します。

ハラスメントは、「行為者の意図とは関係なく」という点がポイントとなります。行為者が良かれと思って行った言動でも、相手方が嫌だと思えばハランスメントとなります。

(4) その他の不適切な行為

その他の不適切な行為として、他者がいるところで過度の叱責を行うこと、長時間にわたって留め置くこと、能力を超えた練習をさせることなどがあります。

なお、これらの不適切な行為については、指導者と被指導者という関係性からは、パワハラに該当するともいえるでしょう。このことからも分かるように、パワハラに該当する言動の範囲は相当広く、その境界線は曖昧であるといえます。

また、懲戒権については次回に詳しく触れますが、懲戒権の範囲内であるとされる、「腕をつかんで連れ歩く」「頭(顔・肩)を押さえる」「体をつかんで軽く揺する」「短時間正座をさせて説諭する」(東京都「体罰の定義・体罰関連行為のガイドライン」より)などの行為も、懲戒権を有しない指導者の場合、不適切な行為とされる可能性があります。

 

3 暴力等不適切行為に及ぶ行為者類型

(1) 暴力等不適切行為に及ぶ行為者のタイプは4つに分類できるとされ、その4類型とは、①確信犯型、②指導方法不明型、③感情爆発型、④不適切行為嗜好型です(「スポーツにおける真の勝利」エーデル研究所・24頁参照)。

(2) 暴力等不適切行為に及ぶ行為者の4類型

① 確信犯型

暴力等不適切行為を行うことが悪いことではなく、むしろ良いことだと信じているタイプです。なお、「確信犯」は、よく誤解されて、悪いことだと確信しながら犯罪に及ぶ犯罪者を指すと思われていますが、正しくは、良いことだと確信して犯罪に及んでしまう犯罪者のことをいいます。指導の現場では、いまだにこのタイプが少なからず存在します。

② 指導方法不明型

本来、暴力等不適切行為を行わなくても、適切な指導のもと、結果を出すこともできますが、そのような指導方法が分からないため、場合によっては即効性のある暴力等不適切行為に及んでしまうタイプのことをいいます。このタイプの指導者も、現場では少なくないでしょう。

③ 感情爆発型

よく「怒る」と「叱る」とは異なると言われますが、感情爆発型は前者の「怒る」タイプで、自らの感情をコントロールできないタイプを指します。

④ 不適切行為嗜好型

稀にではありますが、不適切行為を嗜好するタイプも存在します。特に、小さな子どもに対し、わいせつな行為をしたり、暴力等により虐待したりすることを嗜好する者がいます。

⑤ 混合型

上記①~④が複数混合したタイプも多いと思われます。

(3) 類型別の対策

①②に対しては、正しい知識を得させた上で、指導の本質を理解させる必要があります。

③に対しては、研修やセラピーにより、感情を制御できるよう、アンガーマネジメントを習得させる必要があるでしょう。

④に対しては、嗜好を改めさせる困難性から考えると、子供を守るという観点(チャイルドプロテクション)から、そのような者を指導者とさせない、という対応もあり得ます。

⑤に対しては、先に述べた対策をミックスして対応することになります。

 

次回以降も、指導者による暴力等不適切行為を根絶するための方策を探っていきます。

 

 

 

指導者による暴力等の不適切な行為をなくすために① 〜相談件数の増加について〜

1 本欄では、指導者による暴力、暴言、パワハラ、セクハラ等の不適切な行為(以下「暴力等不適切行為」)をなくすための方策等について、何回かに分けて考えていきたいと思います。

 

私は、(公財)日本体育協会(‪2018年4月1日からは「日本スポーツ協会」に改称されます。)における「スポーツにおける暴力行為等相談窓口」の運営に関わっていますが、そこに寄せられる暴力等不適切行為の相談件数は微増しています。

 

2 2012年に起きた大阪市立桜宮高校の男子バスケットボール部のキャプテンが指導者の暴力等不適切行為により自殺した事件、および同年に女子柔道日本代表選手が代表監督の暴力等を告発した事件を契機に、スポーツ界から暴力等不適切行為を根絶することが叫ばれ、各スポーツ団体に暴力相談窓口が設置されたり、指導者研修会における啓発活動がなされたりしました。

それにもかかわらず、相談件数が増えており、この理由等について以下で考えます。

 

3 なお、このように相談件数が増加しているからといって、暴力等不適切行為の発生件数までもが増加していると捉えることは早計だと思われます。

その理由は、私自身が指導者研修等で講師を担当した際に受講者の反応をみる限り、指導者側での意識が相当程度高まっていること、発生件数の把握は下記に述べるように容易ではなく、必ずしも相談件数が増えたからといって、発生件数が増えたとまでは言えないことにあります。

 

4  私は、相談件数の増加理由として、発生件数が増えたからというよりは、これまでなら泣き寝入りしていたであろう被害者が告発し始めたことによるものと考えます。

ちなみに、被害者が告発せずに泣き寝入りしていた原因として、以下が考えられます。

一つは、告発することで、加害者が告発者や被害者に対してより暴力等不適切行為を強めることを恐れて、被害者が告発することを躊躇うこと、もう一つは、仮に然るべき責任者、スポーツ団体、学校(以下「被告発者」)などに告発したとしても、加害者が被告発者に近いことも多く、被告発者は加害者から事情を聞いて、調査を終えてしまうことも少なくないことです。

 

5 このような、被害者が告発するためのハードルを越えて、声を上げ始めたのは、あるべき姿に近づきつつあるといえます。

しかし、様々なスポーツ団体において、相談窓口が設置され、また設置されつつあるものの、相談者から信頼される窓口がどれほどあるかといえば、まだそれほど多くないと思います。

相談者や被害者の秘密が守られ、二次被害を可及的に防止する体制、及び「相談→調査→事実認定→処分」という手続きが適正に行われる体制が整っていなければなりません。具体的な体制の構築やその問題点については回を改めて言及します。

そして、このような事後的な救済のみならず、事前に防止することも検討しなければなりません。研修会開催等による啓発を励行し、発生件数の総数を減らすことで、相談件数も減少するよう努めなければならないと考えています。上述したように、私は指導者資格を有する指導者向けの研修会の講師を務めさせていただくことも少なくないのですが、研修会に参加される殆どの指導者の意識は高いといえます。問題は、研修会に参加しようとしない有資格者、或いは参加する必要のない無資格者をどのように啓発していくかですが、資格の有無にかかわらず参加できる研修会開催を企画し、多様な人たちに周知し、参加を促すべきものと考えます。

 

次回以降もこの問題について考えていきます。

 

 

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