弁護士 合田雄治郎

合田 雄治郎

私は、アスリート(スポーツ選手)を全面的にサポートするための法律事務所として、合田綜合法律事務所を設立いたしました。
アスリート特有の問題(スポーツ事故、スポンサー契約、対所属団体交渉、代表選考問題、ドーピング問題、体罰問題など)のみならず、日常生活に関わるトータルな問題(一般民事、刑事事件など)においてリーガルサービスを提供いたします。

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刑事事件

なくならないスポーツにおける暴力①

1 はじめに

 2022年8月に、埼玉県本庄市の私立中学校剣道部の元顧問が生徒に対する暴行容疑により逮捕されたとの報道(事件①)、9月には、長崎県諫早市の市立中学校女子バレー部の顧問が部活動中の複数の生徒に対する体罰により文書訓告を受けた後、再発防止の研修受講中にさらに暴力・暴言を行ったとの報道(事件②)、10月には、兵庫県姫路市の私立女子高校ソフトボール部の顧問が部員に対する暴力により顎が外れる傷害を負わせたとの報道(事件③)、11月には、福岡県福岡市の私立高校剣道部の元顧問の暴力・暴言により女子部員が自殺(2020年)した事件に関し学校と遺族の間で和解が成立したとの報道(事件➃)がありました。

 

 10年前の2012年後半に起きた、大阪市立桜宮高校のバスケットボール部キャプテンが顧問の暴力等により自死した事件、および日本女子柔道代表選手が監督等の指導者の暴力等を告発した事件により、スポーツ界では暴力・暴言・ハラスメント等を根絶しようという機運が高まりました。翌年4月には、統括4団体により「スポーツにおける暴力行為根絶宣言」が出され、統括4団体や中央競技団体に相談窓口が設置され、指導者研修において暴力周知徹底が図られてきました。それにもかかわらず、スポーツの現場では、未だに暴力はなくなっていません。

 

 私は、統括団体や中央競技団体で、相談窓口や処分手続に関わっており、指導者研修の講師も数多く担当していますが、暴力を振るう指導者は少なくなってきている実感があり、実際に、日本スポーツ協会の相談窓口(「スポーツにおける暴力行為等相談窓口」)の相談件数において暴力の割合は減少しています。にもかかわらず、上記のように毎月のように暴力に関する報道があるのは、これまでは隠れていた案件が、暴力等を許さないという社会的風潮もあり、顕在化してきたものと考えられ、このこと自体はポジティブに捉えてよいものと考えます。今後も引き続き、指導者や保護者等の関係者に対する啓発活動を繰り返しながら、不適切行為案件の把握に努め、これらの案件において行為者に適切な処分を科すとともに、そこから得られた教訓を啓発に活かすというサイクルを地道に実践していくことが必要だと考えています。

 

 本欄では繰り返し指導者による暴力や不適切行為の問題を採り上げていますが、今回は上記事件について、それぞれ気付いた点をコメントしていきたいと思います。そして、これらのコメントが被害に遭っている方々の参考になれば幸いに思います。なお、本稿では暴力=暴行としております。

 

2 事件①について

⑴ 学校の中の暴力でも逮捕されることもある

 事件①について、報道によれば、2021年12月28日から29日の間、埼玉県本庄市の私立中学校の体育館で、元顧問は、剣道部の指導中、部員の男子生徒の顔面を素手でたたいたり、竹刀で脇腹や喉を突くなどしたりして、複数回の暴力を加えた容疑で逮捕されたということです。続く報道では、元顧問は略式起訴され、罰金20万円の略式命令を受け、また同校からは停職3か月の懲戒処分を受けていたが、その後依願退職したということです。

 

 ここで大切なことは、暴力は刑罰法規に触れる違法な行為であり、学校の中であっても逮捕され有罪判決を受けることもあり、当然のことながら学校は教員が何をしても責任を問われないアンタッチャブルな場ではないということです。事件①では結果的に、略式起訴の上、罰金20万円という有罪判決を受けています(罰金は刑事罰であることに注意)が、逮捕されるインパクトの方が大きいかもしれません。

 

⑵ 許される体罰などない

 WEB上では、部活動中の暴力に関し、暴力は、暴行罪に該当する行為で、体罰ではないといったコメントが見受けられます。これはコメントをした方が暴力の罪深さを示すためのレトリックなのでしょうが、正確には、暴力は暴行罪(刑法第208条)の構成要件に該当する違法な行為であり、体罰(学校教育法第11条ただし書)にも該当する違法な行為です。

 

 懲戒権(不適切なことをした児童生徒を戒める権限)の行使において、わずかに有形力の行使に類する行為が認めらます。たとえば、「放課後等に教室に残留させる」あるいは「授業中、教室内に起立させる」といったものです。あるいは正当防衛や緊急避難の成立する状況では有形力の行使が認められますが、これも限られた場面においてのみ認められ、過剰な有形力の行使となれば違法となります。

 

 私が強調しておきたいことは、「許される体罰」と「許されない体罰」があるのではなく、一切の体罰は違法であり、「許される体罰」はなく、懲戒権の行使の範囲内で有形力の行使に類する行為が認められるにとどまります。加えて、懲戒権は、子どもが不適切なことをしたため、これを戒めるために行使されるものであり、部活動において顧問が指示したプレーができないことを根拠に行使することはできないのです。

 

⑶ あらためて体罰とは

 学校教育法における体罰の定義についての文科省の見解を以下に掲載しておきます。

「児童生徒への指導に当たり、学校教育法第11条ただし書にいう体罰は、いかなる場合においても行ってはならない。教員等(校長及び教員)が児童生徒に対して行った懲戒の行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要があり、その懲戒の内容が身体的性質のもの、すなわち、身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、蹴る等)、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・ 直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する。」(問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)平成19年2月5日初等中等教育局長通知(18文科第1019号))

 

 ここから、体罰には殴る・蹴るなどの明白な行為もあるが、その場の状況により判断しなければならない行為もあるということ、法律上は、懲戒権を有する者だけについて体罰が問題になり、懲戒権を有しない一般のスポーツクラブの指導者が体罰を行うという概念はないことがわかります。

 

*次回、事件②~④についてコメントします。

 

 

民事法上の違法と刑事法上の違法

1 日大アメフト事件に関して、数社の報道機関から取材を受けました。取材の主題は、タックルをした日大選手に、刑事責任あるいは民事責任が生じるか、というものでした。

記者の方の取材に応じる中で、「違法の相対性」や「法秩序の統一性」について、説明する必要性を痛感しました。

 

2 ある行為に関して、民事法上の責任と刑事法上の責任とが各別の手続きにより問われ、結果的に、民事法上の責任の有無と刑事法上の責任の有無とが一致しない場合があります。

このような相違は、民事法における違法の評価と刑事法における違法の評価との不一致が原因のひとつとなっていることがあります。

では、そもそも、このような違法の評価の不一致が許されるのでしょうか。

 

3 法秩序は可及的に統一的であるべきことを理由として、民事法における違法の評価と刑事法における違法の評価とは一致すべきであるべきだという主張があります。

しかし、民事法における要件・効果と刑事法における要件・効果が異なること、刑事法の補充性・謙抑性として刑罰は最後の手段として補充的に用いられるべきであることからして、違法の評価はできるだけ統一的であることが望ましいものの、民事法で違法と評価されても、刑事法では違法と評価されないこともあり得ると考えるべきです。

なお、民事法上は適法であっても、刑事法上は違法であることを認める立場もありますが、刑法の補充性、謙抑性から、少数説に止まっています。

 

4 以上に述べたことを、日大アメフト事件に関連して検討をしてみます。

実際には、日大選手は、クォーターバックに怪我をさせようとして(本人の記者会見でそのように述べています)反則行為であるタックルに及んでいるため、民事法上も刑事法上も違法であると評価され、責任を負う可能性が高いといえます。

これに対して例えば、日大選手が、クォーターバックがパスをした直後に怪我をさせる意図(故意)がなくタックルをして怪我をさせてしまった場合で、日大選手はタックルをすることを避けようと思えば避けられたケースでは、どうでしょうか。

このケースについて民事法上の責任を考えると、日大選手はパスをした直後とはいえ、ボールを持っていないクォーターバックにタックルしており、その上タックルを避けようと思えば避けられるケースであるため、違法と評価されて(違法性は阻却されず)、過失も認められ、責任を負う可能性があります。これに対して、刑事法上は、先ほど述べた刑事法の補充性、謙抑性の観点から、違法と評価されず、責任を負わない可能が高いと思われます。

このように、民事法上は違法と評価されても刑事法上は違法と評価されない場面が出てきます。

 

5 市民生活を送る上で、違法と評価される行為は、民事法上も刑事法上も統一的であることは分かりやすいですし、望ましいといえます。

しかし、民事においては殆どの場合に最終的に金銭の支払により解決されるのに対し、刑事においては懲役・禁錮(場合によっては死刑).などの重大な刑罰を科せられることを考えれば、この違法の評価の相対性はやむを得ないものといえるのではないでしょうか。

 

 

 

書類送検について

1 岐阜県の天然記念物の岩にくさびが打ち込まれたとの報道について本欄でも取り上げました(「『天然記念物の岩にくさび』報道について」)。
この続報として9月30日に、男性のクライマーが書類送検されたとの報道がなされました。
本件に関しては、最初の報道において警察が捜査を開始したことが伝えられ、その報道を契機に当該クライマーが直ぐに警察・関係機関に名乗り出たことが伝えられていました。

この「クライマーが書類送検された」との報道について考えてみたいと思います。

2 そもそも「書類送検」とはどのようなことを指すのでしょうか。

刑事訴訟法をみてみましょう。
同法246条では「司法警察員は、犯罪の捜査をしたときは、この法律に特別の定のある場合を除いては、速やかに書類及び証拠物とともに事件を検察官に送致しなければならない。但し、検察官が指定した事件については、この限りでない。」とされています。
分かりづらい法律用語が並んでいますが簡単にいうと、警察は捜査をしたなら原則として関係書類と証拠を検察官に送らなければならないということです(全件送致主義。但書の例外は微罪事件※1)。条文にある「検察官に送致すること」を略して「送検」といいます。

また、203条1項では「司法警察員は、逮捕状により被疑者を逮捕したとき、又は逮捕状により逮捕された被疑者を受け取ったときは、……被疑者が身体を拘束された時から四十八時間以内に書類及び証拠物とともにこれを検察官に送致する手続をしなければならない。」とされています。
これは被疑者(報道でいう「容疑者」※2)の身柄が拘束された身柄事件に関する条項です。なお、被疑者の身柄が拘束されない事件を在宅事件といいます。
身柄事件においては、在宅事件と比べて、身柄拘束時から送検までの時間が48時間以内とされ、関係書類・証拠と共に身柄が検察官に送致される点が異なります。

 ここで大切なのは、在宅事件でも身柄事件でも捜査された場合には原則として送検されるということと、「書類送検」は厳密には法律用語ではないということです。

3 それでは、以上のことを報道する立場で考えてみましょう。

身柄事件においては、逮捕が送検の前に行われるため、逮捕の事実が報道されることが多く、その後の送致の事実を伝えられることは殆どないと言えます。逮捕は、被疑者が身柄拘束されるので、報道機関にとっては報道価値が高いといえます。これに対して、送検は、上述したように逮捕された以上は、原則として送検されるため、あまり報道価値のないことといえます。

在宅事件においては、身柄拘束の必要がない軽微な事件であることが多く、捜査は秘密裏に行われることから、送検まで報道機関としては事件の存在を把握しづらいといえます。

そこで、報道機関は、在宅事件において、身柄事件の逮捕に代わる報道価値があるものとして、送検を見出し、身柄事件の送検(関係書類、証拠、身柄)と区別して「書類送検」と称しているものと考えられます。

4 法律相談において、「私は被疑者(容疑者)として警察の捜査の対象となっているようですが、私は今後、書類送検されるのでしょうか」という質問をよく受けます。

在宅事件であれば、微罪処分として送検されないように努めることはありますが、刑事手続の流れとして被疑者として捜査がなされた以上は送検されるのはごく当たり前だという感覚の実務法曹は多いと思います。

ところが、報道では、在宅事件において「書類送検」という用語が頻繁に登場します。そうすると、一般には、「書類送検」が何か特別な意味を持つように考えている方が多いように思います。

5 今回の岐阜の天然記念物にくさび事件では、捜査が既に始められていたこと、その後直ぐに被疑者が名乗り出たことは上述したとおりです。
被疑者が名乗り出たとの報道では、氏名こそ公表されませんでしたが、その人物の特定は難しいことではないと思います。そうだとすれば、報道がなされた時点で、その程度は低いとはいえ、ある種の社会的制裁が加えられたことになります。
そして手続の流れとして被疑者として捜査された場合に送検されるのが原則であり、ごく当たり前の手続きの流れであるにもかかわらず、更に送検の報道をすることで、2度目の社会的制裁を加えることになります。

本件においては、既に被疑者について報道されていること、被疑者も事実関係を認めていること、過去に打たれたボルト(くさび)が老朽化のため危険であるから打ち替えたに過ぎないこと(少し取材すれば分かりますし、報道もなされています)からすれば、被疑者に2度も社会的制裁を加える必要など全くないと考えます。

このような報道のあり方には疑問を感じざるを得ません。

6 また、刑事手続には、無罪推定の原則があります。この原則は、被疑者や被告について、「刑事裁判で有罪が確定するまでは『罪を犯していない人』として扱わなければならない」とするもので、憲法において保障されています。 

確かに、報道機関が被疑者の逮捕、勾留、送検、起訴などの報道をすることは、単に事実を報道しているだけともいえますが、日本における刑事裁判における有罪率の高さからすると、報道の受け手としては当該被疑者を限りなく黒(有罪)に近いものとして捉えがちです。

無罪推定の原則や社会的影響力の大きさからすれば、報道機関は、被疑者に関する報道では、もっと慎重であるべきです。

7 以前本欄で、報道機関が被告人を「被告」と表記して報道するために、一般人には、民事事件の被告と刑事事件の被告人との区別がつかなくなり、混乱を招いていると書きました(「『被告』と『被告人』)。

インターネットの発達により、一般人が情報を発信できるようになったといえ、報道機関の影響力はいまだ絶大であるといえます。

報道機関は、その有する報道の自由を行使し、国民の知る権利に資するべきですが、他方で、その有する絶大な権力を自覚し、人権侵害はもとより国民に混乱を招くような報道は可及的に回避すべきものと考えます。

 

 

※1 微罪事件・微罪処分については犯罪捜査規範に下記のように規定されています。
 第198条 捜査した事件について、犯罪事実が極めて軽微であり、かつ、検察官から送致の手続をとる必要がないとあらかじめ指定されたものについては、送致しないことができる。

※2 報道機関で頻繁に登場する「容疑者」という用語は、被疑者とほぼ同義といえますが、それならば何故、被疑者とせずに容疑者とするのか明らかではありません。

 

 

 

裁判傍聴のススメ

1 先日、私の授業を履修している中央大学法学部の学生さんと東京地裁へ裁判傍聴に行ってきました。

刑事裁判を傍聴し、その後、修習時代にお世話になった裁判官に法廷の説明などをしていただき、学生さんから裁判官への質問タイムを設けていただきました。

裁判は一回で結審したため、刑事裁判手続きの流れがよく分かるものでした。

今回、裁判傍聴が初めての学生さんはいませんでしたが、皆、目を輝かせて、裁判を傍聴し、裁判官に質問していました。

2 終了後、学生さんに感想を求めました。

実際に授業で模擬裁判を体験したことから、以前に傍聴したときよりも実感をもって裁判をみることができた。

裁判官に説明を受けたり、裁判官と直接話したりして、今まで見当もつかなかった裁判官の具体的な仕事がおぼろげながら分かった。

大多数はこの様な感想でした。

ひとり、被告人に感情的に肩入れしてしまったという学生さんがいました。

3 これを聞いてハタと気付かされました。私自身は長らくこの様な感想をもっていなかった、ということにです。

今の私は弁護士なので、どうしても弁護人の言動が気になりますし、検察官や裁判官の対応にも注目します。ところが、学生だった頃は、先の学生さんのように、被告人の人生そのものにとても興味がありました。

被告人への過度の感情移入は冷静な判断ができにくくなるということから避けなければなりません。しかし、裁判が被告人という一人の人間を裁く場である以上、その人生を理解しようとすることは、弁護人でも、検察官でも、裁判官でも必要なことだと思います。

4 また、昨今は憲法をめぐる議論が報道を賑わせていますが、裁判では憲法をはじめ法律が適用され、裁判手続きも法律・規則に則り厳格に運用されています。憲法や法律の役割を、実際の目で見て実感することができます。

そうすると私などは、憲法や法律が何のために存在するのかということを考えてみたくなります。

確実に言えることは、裁判を傍聴した人は皆、何かしら考える材料を得られるということです。

5 知らない方も意外に多いようなのですが、裁判は原則として公開の法廷で行われ、これは憲法にも規定されています。最低限のルール(騒がないとか、写真撮影をしないとかいったものです)さえ守れば、ほとんどの裁判は誰でも傍聴することができます。

傍聴したことがない方も、傍聴したことがある方も、是非とも裁判所に行って、考える材料を得てみてはいかがでしょうか。

 

 

 

被害者参加・被害者支援

1 被害者参加制度という制度があるのをご存知でしょうか。

不幸にして刑事事件の被害者となる方のほとんどは、まさか自分が被害者になるとは思っておられないと思います。また、犯人が逮捕されても、有罪判決が下されても、懲役が何年になっても、さらに言うと極刑になっても、決して気が晴れることはないものと思います。

私自身は深刻な犯罪の被害者になったことはありませんが、被害者の方々は、それぞれ、その先の人生を生きていくために、何らかの心の整理をつけていくのだと推察します。

そのような心の整理をする手立てとして、刑事手続に参加するという制度があるのでご紹介します。

刑事手続に参加なんて荷が重すぎると思われるかもしれませんが、被害者やその遺族になってしまったときには、捜査段階から公判段階まで、警察や検察に協力を求められます。そのような刑事手続へのいわば消極的な協力という以上に、刑事手続への積極的な関与をすることができます。そのひとつが被害者参加制度です。

2 被害者参加制度を利用すると、検察官に意見を述べたり検察官から説明を受けたりすること、裁判に出席すること、裁判の中で証人に尋問すること、被告人に質問すること、自らの意見を述べることができます。合わせて、刑事記録の許可部分を見ること(閲覧)やコピーをすること(謄写)ができます。

そして、弁護士が、法律の専門家として、被害者参加人をサポートすることができます(被害者参加弁護士)。被害者参加弁護士は、上記に列挙した被害者参加の際にできることを共に行ったり、代わりに行ったりすることができます。

このように、被害者の方は刑事手続に積極的に関与することで、加害者の事情や事件の背景がより深く理解できるでしょうし、たとえ望むような判決でなくとも、何らかの心の整理はできるものと思われます。

なお、この制度は、人の命や身体をわざと(故意に)害するような犯罪や交通事件、性犯罪など、一定の種類の犯罪被害を受けられた方々が利用することかできます。したがって、それ以外の犯罪の被害者の方は被害者参加をすることはできませんが、別の形でサポートを受けることができます(被害者支援)。

3 被害者参加制度の対象事件に含まれないため被害者参加制度を利用できない方でも、対象事件に含まれるが被害者参加制度を利用したくない方でも、被害者支援という形で弁護士のサポートを受けることができます。

被害者支援の内容としては、捜査段階から公判まで刑事手続における付き添い、告訴状の作成、マスコミ対応、加害者との示談交渉や損害賠償請求などのサポートがあります。

被害者参加制度よりは、支援の範囲は狭まってしまうものの、事件と向き合うために有効な手立てだと思います。

なお、警察や検察にも被害者支援の仕組みがあります。しかし、刑事手続においては、警察や検察は被告人の対立当事者となるので、被告人に適正な処罰を受けさせることが主眼となります。したがって、第三者的な立場にある弁護士の方がよりきめ細かいサポートを提供することができるといえます。

4 最後に、これらの制度を利用するに際し、経済的に費用の負担が難しい場合は、公的な援助を受けられる可能性があります。

被害者参加・被害者支援を利用するか否かは、費用の点を含めて、様々の要素を考え合わせて決めるべきことだと思いますが、心の整理をつける、事件と向き合うという意味では意義深い制度だと考えます。

 

 

「被告」と「被告人」

1 法律相談をしていると、民事事件で訴えられて被告となった場合に、「今後、私は刑罰に処せられるのでしょうか」などと言われる方がいらっしゃいます。実際、このような誤解は少なくないと感じています。
 
 では、何故このような誤解が生じるのでしょうか。
 
 いくつか理由が考えられるでしょうが、最大の理由は、マスコミが被告と被告人を区別することなく、「被告」と呼び習わしていることにあると思います。
 
2 法律上、民事事件において、原告に訴えられた人や法人を「被告」、刑事事件において、検察に起訴された人を「被告人」といいます。
 
 ところが、裁判所から「被告〜」(〜の部分には自分の名前が入ります)と記載された民事事件の訴状が届けば、自分も新聞やテレビなどで取り沙汰される「被告」であって、この先刑罰を科せられるのではないかと不安になっても無理はないと思います。
 
 私が調べた限りでは、マスコミが何故このような表記をするのか、確たる根拠はないようです。国民に法律に対して誤解を生じさせ、混乱を招いている以上、これらの不都合の解消よりも重要な根拠がないのであれば、今すぐこれらのことは改めるべきと考えます。
 
 なお、刑事事件における被疑者(捜査機関に嫌疑をかけられて起訴されるまで)を、マスコミではほぼ同義の用語として「容疑者」と言いますが、これも法律用語ではなく、法律に対する誤解を招く要因になると思います。
 
3 本来、民法や刑法といった国民生活に関わる身近な法律は、一読してある程度の理解ができるべきものであるはずです。
 
 それにもかかわらず、それらの法律は、実際には普通の人が読んで非常に分かり辛い上に(民法については改正作業が進んでいるようです)、先に書いたようにマスコミが用語の本来の意味と異なる意味で用いたり、異なる用語を用いたりすることで、益々理解し難いものとなっています。
 
 私たち法曹も、法律や法律用語をきちんと理解し易く説明していきたいと思いますし、同時に、現行の法律については、より分かり易く改正されるように、新しい法律については、平易な文で立法されるように、関係機関に対し働きかけていくよう努めたいとも思います。
 
 
 

裁判や交渉における「思い」

弁護士は、一方の当事者である依頼者の代理人や弁護人として、当事者の間に入り、依頼者の利益のために働きます。

お金を払って弁護士に依頼する以上、「弁護士に依頼すれば後は弁護士に任せておけばよい」と考えている方も多いと思います。

これは、ある意味で当然のことと思います。

だって、そのためにお金を払っているわけですから。

そのように弁護士にお任せで首尾良くいくこともあります。

ただ、そうでないときもままあります。

裁判にしても交渉にしても、全て人と人との関わりです。

依頼者も人なら、相手方当事者も人、その代理人も人、そしてまた判断者である裁判官も人です。

しかも、そこでは、それぞれの人が真剣勝負をするのです。

裁判や交渉では、それぞれの人の剣の腕前はさることながら、最後の最後は、人の「気合」や「やる気」、すなわち「思い」が物を言うと思うのです。

もし弁護士に依頼して、望みを叶えたいのであれば、弁護士にお任せではなく、弁護士という専門家を使って、「思い」を相手方や判断者にぶつけて、響かせるようにしてはいかがでしょうか。

そうすれば、自ずと結果が伴うことも多くなるでしょうし、例え完全な形での望ましい結果が得られなくても、ある種の満足感は得られると思います。

もちろん、弁護士である私も、依頼者の「思い」を共有して、自分の「思い」をも乗せて、裁判や交渉に臨むようにしたいと思っています。

 

 

刑事事件の量刑の予測について

弁護人として刑事事件を扱っていて、被疑者や被告人の最大の関心事の一つに「どれくらいの刑となりそうか」ということがあります。
 ただし、一貫して無罪を主張している場合は、そもそも有罪を想定していないでしょうから除きます。

プロとしては、量刑についてピンポイントでスパッと答えられれば良いのですが、なかなかそうもいきません。
 例えば、 控訴事件(一審判決に不服があれば控訴ができます)の弁護人をやっていると、一審弁護人の量刑の予測が判決と違ったという不満を聞くことがあります。その被告人は、一審弁護人が言った量刑の予測を頼りに頑張ってきたというのです。
 しかし、量刑は、ケースバイケースという他なく、最終的には裁判官の判断次第となります。
 すなわち、弁護人が量刑を予測したとしても、それはあくまでその弁護人の予測にすぎず、予測が判決と異なってもいわば仕方のないことともいえるのです。

量刑の予測がとても難しいとはいえ、弁護人はプロとして当然に量刑の見通しは話さなければなりません。
 ただ、先に述べたような理由で、その見通しはある程度の幅をもった予測にならざるを得ません。
 そのような訳ですから、弁護人に量刑の見通しを聞いてみて、量刑をピンポイントで予測・断言するような場合は、眉に唾をして聞いた方が良いでしょう。

 私が量刑について聞かれたときには、以下のように答えます。

「量刑は~から~までの間になると思います。貴方の言い分や貴方に有利な客観的な事実を裁判所に分かってもらえれば、自ずと適正な刑になるので、そうなるよう頑張っていきましょう。」

 弁護人としては、量刑の予測よりもむしろ刑事手続を通して、やったことの責任だけはきちっと取ってもらうようにし、その上でこれからどのように更生し、その後の人生をどう生きていくかを一緒に考えていくことこそ重要であると思うのです。

 

 

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