弁護士 合田雄治郎

合田 雄治郎

私は、アスリート(スポーツ選手)を全面的にサポートするための法律事務所として、合田綜合法律事務所を設立いたしました。
アスリート特有の問題(スポーツ事故、スポンサー契約、対所属団体交渉、代表選考問題、ドーピング問題、体罰問題など)のみならず、日常生活に関わるトータルな問題(一般民事、刑事事件など)においてリーガルサービスを提供いたします。

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マラソン代表選考について

1 2016年2月26日付け朝日新聞によれば、福士加代子選手がリオデジャネイロ五輪の女子マラソンの最終選考会を兼ねた名古屋ウィメンズ(3月13日)にエントリーしたことが明らかになりました〈註1〉。

福士選手は、1月の大阪国際女子マラソンで日本陸上競技連盟(以下、「陸連」)の設定記録を突破して優勝したにもかかわらず、代表の「当確」が出なかったため、代表選出をより確実にするために、名古屋ウィメンズにエントリーしたということです。21日、陸連の強化委員長は、福士選手に対して、オリンピックでの活躍を期して、名古屋ウィメンズに「出ることは避けてもらいたい」と呼びかけていましたが、他方で福士選手の当確は約束できないとしていました。

2 なぜ、このようなことが起きたのでしょうか。

2015年6月29日に陸連が発表しているマラソンのリオデジャネイロ五輪代表選考基準( 以下、「選考基準」  http://www.jaaf.or.jp/wp/wp-content/uploads/2015/09/2016daihyo_02.pdf )をみると、非常に複雑で分かりづらいといえます。福士選手は、大阪国際マラソンの優勝した瞬間には代表が当確だと考えたようですが、これも選考基準の複雑さ、不明確さによるものでしょう。
選考基準よれば、選考されるための条件には、内定条件と選定条件とがあります。内定条件をクリアすれば代表は一発で当確となります。これに対して、選定条件の優先条件をクリアしても、その条件に優先順位があるため選考の予想はできるものの、最終的な当確は陸連の様々の要素を考慮した総合的な判断となります。したがって、仮に福士選手が名古屋ウィメンズで優勝しても、選定条件に基づく優先順位が上がり事実上の当確とはなりますが、選考基準に照らせば厳密には当確とはならないのです。すなわち、選定条件をいくら満たしても代表が当確とならないという選考基準ゆえに、選手は陸連の最終的な発表があるまで結果は分からず、その間選手は極めて不安定な立場におかれることになるのです。

また、マラソン特有の問題として、ひとつの大会に参加するとその疲労は甚大であり、回復に時間が掛かることにあります。上述したように、陸連の強化委員長は、代表に選考される可能性が高い福士選手に、その疲労の蓄積を心配して名古屋ウィメンズに出ないように要請したようです。複数の選考会を設ける場合(以下、「複数会選考」)には、ひとつの選考会で不本意な成績でも、他の選考会で挽回して代表を狙うことは可能ですが、マラソンの場合、複数の選考会に出場したことによる疲労を考えると当該選手のオリンピックでの活躍にはマイナスに働く可能性が高いと考えられます。

このように、陸連の選考基準の不明確さとマラソンにおける複数選考会のデメリットが今回の福士選手の問題の原因であるといえます。

3 それでは今後どのような選考基準にすべきでしょうか。

(1) 陸連の裁量を排除し明確化する
選考基準に関して「明確性」という場合に、複雑ではなく単純明快であるという明確性と裁量を排除した明確性という二つの意味が込められていると思われます。たしかに、複雑で分かりにくい選考基準は最適とはいえませんが、複雑であっても一義性があるのであれば、選考基準として問題がありません。ここでの一義性とは、選考基準とアスリートの成績や記録だけから、代表が明らかになることをいい、裁量を排除することも含めた概念を指します。

競技によっては一義性がある選考基準を作成することが難しいものもありますが、マラソンは一義的な選考基準を作成することが可能です。すなわち、マラソンは、個人競技であり、かつタイムという客観的な物差しによって勝敗が決し、審判の主観的採点で勝敗が決まるわけでもなく、また団体競技におけるチーム内での役割・貢献度等の数量化が難しい基準を考慮しなければならないわけでもないので、陸連の裁量を排除した、一義的で明確な選考基準にすることが可能なのです。

それにもかかわらず、陸連の選考基準は複雑で分かりにくいという意味でも明確性を欠き、内定した選手以外は最終的に陸連の裁量による判断となっているという意味でも明確性を欠き、一義性のない基準といえます。

陸連としては、選考の過程でどのような事態が生じるか分からないので、複数会選考方式を取りつつ、裁量の余地を残しておきたいのでしょうが、過去の選考方法や他競技の選考方法を参考にしつつ、あらゆる事態を想定して予め選考基準に盛り込み、裁量を排除すべきです。
これをアスリート側からみれば、外部からその判断過程が見えにくい裁量判断を排除し、複数選考会においても少なくとも最終選考会の終了時には代表は確定する選考基準は、歓迎されるのではないでしょうか。

(2) 一発選考か複数会選考か
一義性、明確性という観点からは、ひとつの選考会で代表を決する一発選考が優れているといえますが、複数会選考においても、裁量を排除した一義性がある基準が作成できます。それでは、一発選考か、複数会選考か、いずれによるのがよいのでしょうか。

先ずは、複数会選考について考えてみましょう。
例えば、代表を3人選考する場合、3試合で日本人最高順位の者を選出するというのが、分かりやすく明確だといえます。ただし、この基準によっても、ひとつの大会に有力選手が集中し、その大会の日本人2位の選手のタイムが他の大会の日本人1位選手よりも良いタイムであることもあり得ると思います。そうだとすれば、3大会を通して、良いタイムを出した選手から3名選ぶということも考えられます。ところが、タイムはそのときの気候やコース等の条件に左右されるため、真の実力が計れないということも指摘されています。
このように順位だけでもタイムだけでも実力が計れないと考えると、両者を組み合わせた複雑な選考基準とならざるを得ません。
なお、一発選考であれば、タイムがそのまま順位に反映されるため、複数会選考におけるようなタイムと順位とのズレを修正する必要もなく、分かりやすく明確な基準といえます。

ただし、複雑で分かりづらくても、一義性を確保できるのであれば、複数会選考でも問題がありません。しかし、マラソンの場合は、その特性である疲労の蓄積という点についても考慮しなければなりません。すなわち、前述のとおり、複数会選考において様々な要素を総合的に判断せざるをえず、その場合にはすべての要素が出揃う最終選考会の終了時まで代表が明らかとならないことになり、アスリートとしては、不確実なオリンピック出場時の疲労を心配することよりも、福士選手のように先ずはオリンピック出場を確実にすることを優先することも十分に考えられます。

そうだとすれば、複数選考会にするとしても、内定条件をより拡大して、選考会毎に内定を出していく方法があると思います。先に挙げた例である、3試合で各々日本人一位の3人を代表として選出する方法が分かり易く明確ですが、この方法のデメリットも先に述べたとおりです。少なくとも、3人の代表のうち2人は内定で必ず決定するようにしておき、残り1人は全ての選考会が終了後決するということも考えられますが、その場合の内定条件の設定は極めて難しく、複雑化するものと考えられます。

以上のようなことを考えると、やはり一発選考がマラソンには適しているといえるのではないでしょうか。

(3) 一発選考のデメリットに対して
一発選考のデメリットとして、選考会において、実力があるとされる選手の調子が悪かったり、直前に怪我をしてしまったりして実力を出せず、そのような選手を選出できないということがあります。しかし、オリンピックも一発勝負です。選考会のその日その時に実力を出せなければ、それは実力がないということになるのではないでしょうか。

また、一発選考であれば、輝かしい成績を残した瀬古利彦選手や高橋尚子選手は代表として選出されていなかった可能性があることが挙げられていますが、当初から一発選考の基準が公表されていればその選考会に合わせて瀬古選手も髙橋選手も調整をしたでしょうし、勝負強い選手であれば、一発選考においても勝負強さを発揮して同じく代表に選出されていたかもしれず、仮定に基づく、確たる根拠があるといはいえない批判だと思います。

 

4 いかにしてオリンピックで勝てるアスリートを選考するかは、永遠に答えの出ない難問です。
陸連が、この答えの出ない難問に挑み続けなければならず、最終的な選考の判断は全てが終った後に様々な要素を考慮して行ないたいとすることも理解できないわけではありません。しかし、選ばれる側のアスリートからすれば、代表に選ばれるためには何をすればよいかということが、予め示され、これに向かってトレーニングを積むということこそが必要であり、不明確な基準のために自らの代表選出に関して余計な神経を使う時間があれば、代表に選ばれた者はオリンピックに向けた準備に費やし、選ばれなかった者は新たな目標に向かって進みたいというのが本音なのではないでしょうか。

以上の検討から、私は一発選考による基準が、選考基準の明確性・一義性という観点から適しており、今回の福士選手のような立場に追いやられる選手が出ないアスリート・ファーストに資する基準であると考えます。

〈註1〉その後、福士選手は名古屋ウィメンズの出場を取りやめました。

 

 

防げる岩場での事故

1 私が岩場解禁でお手伝いさせていただいた湯河原幕岩において、昨年12月に不幸にも死亡事故が起きました。

この事故は、現場の状況からすると、以下のように起きたと考えられます。

亡くなったクライマーは、約20メートルのルートの終了点まで登りました。その後、終了点の支点リングへのロープの結び替えの際に、何らかの手違いが生じ、ハーネスにロープがきちんと結ばれていないにもかかわらず、クライマーが下降しようとロープに体重をかけたところ、ロープに確保されることなく、そのまま落下した、というものです。

2 本件は、ロープの結び替えの際に手違いが生じている可能性が極めて高いので、結び替えをしなければ、生じなかった事故といえます。

ロープの結び替えは、ロープを一旦解き、結び直す(逆の順序もあります)以上、結び忘れや結ぶ際のミスというリスクが必然的に伴います。しかし、ロープの結び替えが不要な終了点にすれば、この結び替えのリスクは避けられるものです。

3 では、なぜ、結び替えのリスクが避けられるにもかかわらず、結び替えが必要な終了点があるのでしょうか。

十数年前に私が盛んにフリークライミングをしていた頃は、どこの岩場でも、大多数の終了点には、下降用に、安全環付きカラビナや複数のカラビナ、あるいは終了点に固定されたカラビナ(以下、「残置カラビナ」)が残置され、終了点に着いても結び替える必要がありませんでした。

ところが、残置カラビナが頻繁に持ち去られ、その後、残置カラビナがないままになっているか、あるいは、持ち去りを危惧して、初めから残置カラビナを設置しない終了点が増えてきています。
すなわち、残置カラビナが持ち去られることによって、終了点に残置カラビナがなく、やむなく結び替えをしなければならない状況になっているのです。

4 残置カラビナの「持ち去り」は犯罪です。窃盗罪あるいは占有離脱物横領罪になります。しかも、この持ち去りにより、死亡事故が生じている以上、他者の生命を危うくしており、極めて悪質だといえます。

残置カラビナの持ち去りは、2人以上のパーティーの最後に登る者が、先に述べた結び替えのリスクを負いながらロープを結び替えてなされていると考えられます。パーティーの最後に登り、結び替えをする者は、ある程度の経験と技術を有していないと出来ないはずで、このような者は残置カラビナがいわば他の全てのクライマーのために残置されていることを知っているはずなのです。
そうだとすれば、間違えて回収したなどという言い訳は通用しませんし、持ち去りの悪質性はこの点においても否めません。

5 フリークライミング界では、チッピング(岩を削ったり加工したりして、ルートの質を変えてしまうこと)の問題が話題になっています。チッピングは断じて許されるものではありません。
しかし、チッピングがクライミングの倫理の問題であるのに対し、残置カラビナの持ち去りは犯罪であり明らかに違法です。残置カラビナを持ち去ってはならないことは、あまりに当然の事であるがためにさして話題にならないのでしょうが、事の重大性から再確認しなければなりません。

財布を落としても、かなりの確率で戻ってくるこの安全な国で、このようなことを言わなければならないのは残念で仕方がありませんが、改めて声を大にして啓発していく必要があります。
そして避けられる事故は、可及的に避けなければならないのであり、結び替えによる事故は、残置カラビナを持ち去らないという至極当たり前のことを守りさえすれば避けることが出来るのです。

最後に、幸いにも終了点に残置カラビナがあった場合には、残置カラビナの状態が下降に耐えうるものかの確認は、クライマーの責任として必ずなされるべきです。

 

 

 

代表選考について(5)

1 12月5日にJSAA(日本スポーツ仲裁機構)主催の「代表選手選考紛争をめぐる問題」と題するシンポジウムがありました。

代表選考の問題については、小欄で4回にわたって考えました(下記参照)。今回のJSAAのシンポに参加して気付いたことがありましたので、以前の考察に加えて、述べたいと思います。

2 先ず、日本水泳連盟(以下「水連」)の競泳に関する報告によれば、明確で客観的な代表選考基準を予め開示すること(基準の客観化・基準の開示)で、選手の競技能力が上がったということです。

2000年に代表選考をめぐり紛争になった千葉すずさんの問題以降、それまでの曖昧な基準を明確にして一発勝負で代表を決することにしたところ、実績のない選手はやる気を出し、ベテラン選手は危機感をもち、その結果、その後のオリンピックのメダルの数が大幅に増えたというものでした。

小欄でもアスリートを第一に考えるというアスリート・ファーストの視点から、基準の客観化・基準の開示は当然のこととして述べましたが、これはアスリートの権利保護という、ある意味で消極的な意味合いの強いものでした。しかし、この報告によって、アスリートの競技能力が向上するという、より積極的な意義が実証されたといえます。

ただし、競泳においてはタイムという客観的ものさしで明確な基準を示しうるということ、競泳が個人競技であるということに注意しなければなりません。基準の明確化・基準の開示がより積極的な意味合いを持つかは、団体競技の水球、採点競技のシンクロナイズドスイミング(団体種目もあります)や飛込みといった水連が統括する他の競技においては未だ証明されていないとのことでした。

今後の報告を待ちたいと思います。

3 もう一つは、既に報道もなされていますが、世界選手権の代表選考会議をマスコミに公開したという全日本柔道連盟(以下「全柔連」)の報告です。

以前小欄で、代表選考においては、NF(国内統括団体)の裁量を完全になくしてしまうことは現実的ではないが、裁量の幅をできるだけ狭くすべきであり、裁量権を行使した場合には、その公正性を確保するため事後的に説明する(あるいはアスリートの側から説明を求める)ようにしてはどうかとの提案をしました。

ところが、全柔連の選考過程の公開は、公正性の確保の点で、小欄の提案を上回る画期的な試みであるといえます。すなわち、NF自ら選考過程を公開することで裁量権の行使の様子がガラス張りになり、選考者はリアルタイムで慎重に裁量権を行使しなければならなくなり、NFに事後に説明責任を課すよりも公正性が担保されるものといえます。

全柔連の報告者の山下泰裕さんによれば、全柔連が選考過程を公開するに至るまで様々の反対がありご苦労もあったそうですが、公開後にはさして混乱が生じなかったとのことです。

このように、選考過程の公開は、リアルタイムで裁量権の行使の過程をガラス張りにし、裁量権の行使を慎重にさせる最良の方法のひとつとして、他の競技、特に裁量の幅が広い競技においては積極的に導入すべきものだと考えます。

 

【参考】

 代表選考について(1)https://gohda-law.com/blog/?p=266

 代表選考について(2)https://gohda-law.com/blog/?p=286

 代表選考について(3)https://gohda-law.com/blog/?p=293

 代表選考について(4)https://gohda-law.com/blog/?p=305

 

 

 

スポーツを健康・安全に楽しむためのガイドラインについて

1 報道によれば(朝日新聞 平成27年10月17日)、10月16日に、救急医学の関連学会など25団体でつくる日本蘇生協議会が、一般の人にも救急措置を呼びかけ、倒れた人が心肺停止であるかの判断に迷っている場合においても、すぐに胸骨圧迫(心臓マッサージ)を始めるよう求める指針を発表しました。

指針によれば、「倒れている人を見つけたら、119番通報を行い、直ちに心臓マッサージを開始する。周囲に人がいれば、AED(自動体外式除細動器)の手配を頼み、AEDが届いたら操作を始める。AEDを試みた後は救急隊員が到着するまで心臓マッサージを続ける。また、心臓マッサージで胸の骨が折れるなどをしても法的な責任は基本的には問われない。」とのことです。
「迷う5秒、10秒のロスをなくして救命につなげたい」と同会会長は語っています。

2 スポーツ中の事故(以下、「スポーツ事故」)についても、この指針は役立つものといえます。

すなわち、スポーツ事故等により、意識や呼吸がない人が出た場合、救急隊員が来るまでに、その場にひとりでも上記指針について知識がある人がいれば、その人の命を救うことになったり、その後の早期回復に役立ったりします。

3 スポーツ事故は可及的に防止しなければなりませんが、スポーツが人の動的な活動であるという性質上、スポーツ事故をなくすことはできません。そうであれば、予防策と平行して、不幸にしてスポーツ事故が起きてしまった場合の対処策についても検討しておく必要があります。

特に、山岳事故においては、街中とは異なり、救急隊員の到着まで相当時間を要します。その間に、その場に居合わせた人が適切な救急措置を施したならば、傷病の悪化を最小限にとどめることができるでしょう。 

4 ただ、指導者などではない一般の人がスポーツ事故に遭遇した場合に、救急措置によって悪化させてしまったら法的責任を問われるのではないか、という心配が、速やかな救急措置を躊躇わせる一因となっていると考えられます。

このような心配を排除するためには、スポーツ事故の救急措置について、医師、弁護士、救急隊などの関係者が集まり、心肺停止にとどまらず、広く救急措置の必要な事故に対応できるガイドラインを作成し、一般の人に周知すべきでしょう。

そして、ガイドラインに沿って救急措置を行なったにもかかわらず、不幸にも悪化させてしまったり、二次的傷害を負わせてしまったりしても、法的責任を問われないという安心感を得てもらう必要があると思います。 

5 スポーツ法の分野では、世界的にヘルス&セーフティーということが提唱されています。平たくいうと、スポーツを健康に、安全に楽しむための法的整備を行うということです。

日本においても、あらゆる人々が生涯にわたってスポーツが楽しめるよう、スポーツ事故を起こさない、そして起きてしまったスポーツ事故は最小限の被害にとどめる、という工夫をしていくべきでしょう。

現状、日本でも、上記の心肺蘇生に関するガイドラインや、熱中症や脳震盪の予防・対処に関してガイドラインが作成されていますが、ヘルス&セーフティーという観点からは、まだまだ十分とはいえません。

医療関係者(救急関係者を含む)・法曹関係者・スポーツ関係者が一堂に会し、スポーツを健康・安全に楽しむための、スポーツ事故の予防や事故後の措置をも含めた網羅的なガイドラインを作成することが急務だと考えます。

 

 

登山届提出の義務化の是非について

1 平成27年7月1日に、国会において「活動火山対策特別措置法の一部を改正する法律」(以下「改正活火山法」)が成立し、登山者等の登山届提出が努力義務とされました。

また「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例」(平成26年12月1日施行、以下「岐阜県条例」)においても、登山届提出が義務とされ、違反者に対する罰則規定が設けられています<註1>。

これらより以前の例として、「富山県登山届出条例」(昭和41年施行、以下「富山県条例」)及び「群馬県谷川岳遭難防止条例」(昭和42年施行、以下「群馬県条例」)があり、両条例とも、登山届提出を義務としており、更に提出された登山届の内容を事前にチェックするもので、未提出者や登山計画変更の勧告に従わない者に対する罰則が規定されています。

2 これら登山届提出を義務とした条例・法律は、下記の3類型に分類できます。

(1) 罰則強制・内容チェック型
これは、公的機関が登山届の提出を罰則をもって強制し、登山計画の妥当性まで判断するという強度の義務が規定された型です。先に挙げた富山県条例と群馬県条例これに当たります。
なお、この二つの条例は昭和40年代の古い条例ですが、対象を特に遭難事故の多い山岳・時期に限定していることに注目すべきでしょう。

(2) 罰則強制型
登山届の提出を罰則をもって強制するものであり、岐阜県条例がこれに該当します。
岐阜県条例は昨年制定され、新聞紙上でも議論があったところです。岐阜県条例は、登山届提出の対象となる時期について、富山県条例や群馬県条例のような限定がなく、対象となる山岳についても、ある程度広い範囲とされています。

(3) 努力義務型
登山届の提出を努力義務とするものです。努力義務は、義務として規定されていても、義務の履行を強制するための罰則規定等がないものをいいます。
改正活火山法においては、登山届の提出は努力義務とされています<註2>。

3 予てより、入山届提出の義務化は議論があったところです。
登山は、本来自由な行為であり、その規制は必要最小限度にとどめるべきであり、国や地方公共団体等(以下、「公的機関」)に届を出してお伺いをたてるような行為ではない。また、登山届を出させたからといって、山岳遭難事故防止の実効性には疑問がある。これらが、反対論者の根拠として挙げられています。
これに対して、登山届を出させることで、登山者に慎重な計画を立てることを促し、もって自らの実力を超えた無謀な登山を防止する。そして登山届の情報により迅速かつ的確な救助活動ができる。これらが賛成論者の根拠です。

さて、どう考えるべきでしょうか。

4 賛成論者のいうように、登山届を出させることは、慎重な計画立案を促し、無謀な登山を防止するという点で一定の効果が期待できます。また、登山届記載の情報が、救助の際に大きな役割を果たすことも少なくないでしょう。

また、 朝日新聞(8月10日付け)によれば、北アルプスで登山者100名(男性73名、女性27名)にアンケートをとったところ、登山届の提出義務化に賛成する登山者が実に96名(96%)もいたそうです(反対が4名)。また昨年の調査ですが、ヤマケイ登山総合研究所の同様の調査でも86%が賛成したそうです。これらの数字からは、昨年から既に登山届提出の義務化に賛成する登山者が大半を占め、今年に至って、賛成者は更に増え、殆どの登山者が登山届の提出義務化に賛成していることがうかがえます。

5 これらのことからすれば登山届の提出義務化に全面的に賛成しても良さそうなものです。しかしながら、私は、登山届提出を義務とすることはやむを得ないとしても、努力義務にとどめるべきだと考えます。

登山は、本来、自らの責任のもと、危険を引き受けた上で、思うがままに山岳を登る行為であり、「思うがままに登る」自由の中に、当然のこととして登山を計画する自由も含まれると解されるべきです。
公的機関が、予め登山届の内容をチェックして、危険だから止めさせる事ができるとすれば、それは本来的意味での登山という行為(登山の自由)を著しく侵害する規制であると考えます。登山における冒険的で偉大な登山の記録は、多かれ少なかれ、その当時の感覚からすれば無謀な行為です。公的機関による事前チェックがなされるとすれば、冒険的で偉大な登山の計画の大多数がはねられてしまい、そのような記録は生まれないと考えられます。

また、事前の登山届提出を罰則をもって強制することも、登山本来の意義を損なうものです。すなわち、本来自己責任でなすべき登山であるのに、登山届を提出しない場合には違法となり、仮に登山届を出したとしても、その後の計画の変更の蓋然性が高い場合(冒険的な登山では十二分にあり得ることです)、虚偽の内容の登山届を出したととられかねず、違法となる可能性があります。

近年、大多数の登山者の登山に対する考え方が、冒険的、あるいは先鋭的な登山から、より気楽に山岳に親しむための登山に変わってきました。そのような登山者は得てして危険や自己責任に対する意識も希薄であることから、登山届を出させることの有効性は否定できず、登山届提出の義務化の流れは止めようもありません。しかし、繰り返し述べてきたように、本来登山は、自らの責任のもと、「思うがままに登る」行為である以上、登山届提出を義務化するとしても、強制を伴わない努力義務にとどめるべきです。上記の型でいえば、(3)の努力義務型が妥当であると考えます。

最終的には、この問題は登山者の自覚にかかっています。登山はどのような低山でも生命の危険があるのであり、自らの身は自らの責任で守るべきことを認識して山に臨まなければ、たとえ登山届提出を罰則をもって強制し登山届を出させたとしても、無自覚な登山者の遭難事故が減ることはないと思います。

6 以上のように、登山届の提出義務について考える際には、単に目先のメリット、デメリットだけで判断するのではなく、登山における先達が成し遂げた偉業にも慮り、登山の本来的意義にたちかえるべきであると考えます。 

<註1> 「届出をせず、又は虚偽の届出をして……登山した者は、五万円以下の過料に処する」(同条例7条)とする規定はありますが、事前の登山届の内容をチェックする規定はありません。
<註2>  改正活火山法は、法律であることから、条例と異なり全国に適用され、登山者の自由を広く規制するものといえますが、対象の火山を限定しており、御嶽山の噴火事故を教訓に制定されたことをも合わせて考えれば、妥当な法律であるといえるでしょう。

 

 

裁判傍聴のススメ

1 先日、私の授業を履修している中央大学法学部の学生さんと東京地裁へ裁判傍聴に行ってきました。

刑事裁判を傍聴し、その後、修習時代にお世話になった裁判官に法廷の説明などをしていただき、学生さんから裁判官への質問タイムを設けていただきました。

裁判は一回で結審したため、刑事裁判手続きの流れがよく分かるものでした。

今回、裁判傍聴が初めての学生さんはいませんでしたが、皆、目を輝かせて、裁判を傍聴し、裁判官に質問していました。

2 終了後、学生さんに感想を求めました。

実際に授業で模擬裁判を体験したことから、以前に傍聴したときよりも実感をもって裁判をみることができた。

裁判官に説明を受けたり、裁判官と直接話したりして、今まで見当もつかなかった裁判官の具体的な仕事がおぼろげながら分かった。

大多数はこの様な感想でした。

ひとり、被告人に感情的に肩入れしてしまったという学生さんがいました。

3 これを聞いてハタと気付かされました。私自身は長らくこの様な感想をもっていなかった、ということにです。

今の私は弁護士なので、どうしても弁護人の言動が気になりますし、検察官や裁判官の対応にも注目します。ところが、学生だった頃は、先の学生さんのように、被告人の人生そのものにとても興味がありました。

被告人への過度の感情移入は冷静な判断ができにくくなるということから避けなければなりません。しかし、裁判が被告人という一人の人間を裁く場である以上、その人生を理解しようとすることは、弁護人でも、検察官でも、裁判官でも必要なことだと思います。

4 また、昨今は憲法をめぐる議論が報道を賑わせていますが、裁判では憲法をはじめ法律が適用され、裁判手続きも法律・規則に則り厳格に運用されています。憲法や法律の役割を、実際の目で見て実感することができます。

そうすると私などは、憲法や法律が何のために存在するのかということを考えてみたくなります。

確実に言えることは、裁判を傍聴した人は皆、何かしら考える材料を得られるということです。

5 知らない方も意外に多いようなのですが、裁判は原則として公開の法廷で行われ、これは憲法にも規定されています。最低限のルール(騒がないとか、写真撮影をしないとかいったものです)さえ守れば、ほとんどの裁判は誰でも傍聴することができます。

傍聴したことがない方も、傍聴したことがある方も、是非とも裁判所に行って、考える材料を得てみてはいかがでしょうか。

 

 

 

スポーツ団体のガバナンスと手続的正義

1 女子ホッケー代表前監督の日本ホッケー協会による解任決定が、日本スポーツ仲裁機構(JSAA)によって取り消されました。

解任の手続きが、団体自らが作った規則に則っていなかったのがその主な理由です。

このJSAAの判断から、何を得るべきでしょうか。私はこの判断は「スポーツ団体のガバナンス」と「手続的正義」とを考える良い機会を与えてくれるものと思います。

2 スポーツ団体のガバナンス。この聞き慣れない言葉の意味をご存知の方は少ないと思います。

端的にいうと、ガバナンスとは、社会的責任を担うスポーツ団体では、その責任に応じた団体としての体をなしてなければならないということです。団体としての体とは、きちんとしたルールや規則があり、それに則って意思決定や業務運営がなされているということです。

ほとんどのスポーツ団体の始まりは、愛好家が寄り集まり、そのスポーツを振興・発展させようとする、いわば同好会的な団体だったと思われます。ところが、スポーツが広く楽しまれるようになり、社会においてスポーツの重要度が増し、それに伴いスポーツ団体の社会的な価値が高まるようになりました。

例えば国内を統括するスポーツ団体(NF:National Federation)は、そのスポーツの普及・振興のために、国際試合の代表選手を選考したり、国内試合(日本で開催する国際試合)の主催をしたり、各種の研修会を開催したりすることができます。また、財政面では、公的補助金を得ることができます。
スポーツ団体は、これらの役得(権限)を得ることと引き換えに、当然ながら責任を負うことになります。

ところが残念なことに、このことを自覚しているスポーツ団体は少ないと言えます。その結果、スポーツ団体は、団体としての体を未だなさず、ガバナンス体制を構築できていないのです。

先のJSAAの判断で言えば、意思決定に関するルールはあるが、そのルールに則って意思決定がなされなかった、という点においてNFはガバナンスができていなかったといえます。

3 また、今回のJSAAの判断では、スポーツ団体が自ら定めた「手続き」のルールに則っていないということが重視されています。

仮に、今回の解任の決定が取り消されたとしても、その後正式な手続きを踏んで、解任されることはあり得ます。すなわち、決定の内容が適正であるとしても、決定の手続きに問題があれば、その決定は取り消され得るということなのです。

ここでは、手続きのルールを決めることと、そのルールに従い手続きを行うことが求められています。このことは手続的正義と呼ばれることもあります(多義的な言葉ですがここではこのような意味とします)。決定内容の適正と手続的正義とは同等のレベルで重要であるとの考え方が根底にあります。

手続きを重視する考え方は、人間を信用しない性悪説的な考えに基づき、適正な決定がなされるための安全弁であるといえます。ダーティー・ハリーのように、手続きは逸脱しても結果が正解なら良いだろうとするのは、一見正しいようにも思いますが、私的制裁(リンチ)を許すことにもなりかねず極めて危険な考え方だと言えます。

以上のようなことから、JSAAの判断では、安全弁である手続きに関するルールに基づいて決定がなされていなかった点が重視されているのです。

4 ガバナンスと手続的正義、いずれも一般の方には馴染みの薄い考え方かもしれません。しかし、スポーツが広く国民に浸透し、老若男女がスポーツを楽しめるようにするには、スポーツ団体のガバナンス体制の構築は欠かせません。また手続的正義は、刑事法における適正手続の保障(憲法31条)と似た考え方あり、極めて重要な考え方です。

JSAAの判断は、「スポーツ団体のガバナンス」と「手続的正義」という重要な論点を考えさせてくれる良い契機を与えてくれたと思います。
このような視点を踏まえて http://www.jsaa.jp/award/AP-2014-008.html#a01 を一読いただければと思います。

 

 

 

被害者参加・被害者支援

1 被害者参加制度という制度があるのをご存知でしょうか。

不幸にして刑事事件の被害者となる方のほとんどは、まさか自分が被害者になるとは思っておられないと思います。また、犯人が逮捕されても、有罪判決が下されても、懲役が何年になっても、さらに言うと極刑になっても、決して気が晴れることはないものと思います。

私自身は深刻な犯罪の被害者になったことはありませんが、被害者の方々は、それぞれ、その先の人生を生きていくために、何らかの心の整理をつけていくのだと推察します。

そのような心の整理をする手立てとして、刑事手続に参加するという制度があるのでご紹介します。

刑事手続に参加なんて荷が重すぎると思われるかもしれませんが、被害者やその遺族になってしまったときには、捜査段階から公判段階まで、警察や検察に協力を求められます。そのような刑事手続へのいわば消極的な協力という以上に、刑事手続への積極的な関与をすることができます。そのひとつが被害者参加制度です。

2 被害者参加制度を利用すると、検察官に意見を述べたり検察官から説明を受けたりすること、裁判に出席すること、裁判の中で証人に尋問すること、被告人に質問すること、自らの意見を述べることができます。合わせて、刑事記録の許可部分を見ること(閲覧)やコピーをすること(謄写)ができます。

そして、弁護士が、法律の専門家として、被害者参加人をサポートすることができます(被害者参加弁護士)。被害者参加弁護士は、上記に列挙した被害者参加の際にできることを共に行ったり、代わりに行ったりすることができます。

このように、被害者の方は刑事手続に積極的に関与することで、加害者の事情や事件の背景がより深く理解できるでしょうし、たとえ望むような判決でなくとも、何らかの心の整理はできるものと思われます。

なお、この制度は、人の命や身体をわざと(故意に)害するような犯罪や交通事件、性犯罪など、一定の種類の犯罪被害を受けられた方々が利用することかできます。したがって、それ以外の犯罪の被害者の方は被害者参加をすることはできませんが、別の形でサポートを受けることができます(被害者支援)。

3 被害者参加制度の対象事件に含まれないため被害者参加制度を利用できない方でも、対象事件に含まれるが被害者参加制度を利用したくない方でも、被害者支援という形で弁護士のサポートを受けることができます。

被害者支援の内容としては、捜査段階から公判まで刑事手続における付き添い、告訴状の作成、マスコミ対応、加害者との示談交渉や損害賠償請求などのサポートがあります。

被害者参加制度よりは、支援の範囲は狭まってしまうものの、事件と向き合うために有効な手立てだと思います。

なお、警察や検察にも被害者支援の仕組みがあります。しかし、刑事手続においては、警察や検察は被告人の対立当事者となるので、被告人に適正な処罰を受けさせることが主眼となります。したがって、第三者的な立場にある弁護士の方がよりきめ細かいサポートを提供することができるといえます。

4 最後に、これらの制度を利用するに際し、経済的に費用の負担が難しい場合は、公的な援助を受けられる可能性があります。

被害者参加・被害者支援を利用するか否かは、費用の点を含めて、様々の要素を考え合わせて決めるべきことだと思いますが、心の整理をつける、事件と向き合うという意味では意義深い制度だと考えます。

 

 

中央大学法学部で兼任講師を務めさせていただきます

1 この4月から、中央大学法学部で兼任講師を務めさせていただくことになりました。

私は、ホームページのプロフィールにも書きましたが、長らく家庭教師をしていたため、「人を教えることは、もう十分やったかな」という気持ちがありました。

他方で、以前に5年間ほどクライミング初心者対象のインストラクターをしていたとき、初めてクライミングを体験する皆さんが顔を輝かせて登る姿をみて、「クライミングの楽しさを伝えることは遣り甲斐があるな」とも感じていました。 

2 そのような割り切れない気持ちでいたところ、昨年10月に修習生(司法試験に合格し、トレーニング期間中の法曹の卵)にスポーツ仲裁に関する講義をする機会がありました。

前年同じ講義を担当していた方から、スポーツ法に興味がある修習生は殆どいないから、大変かもしれないとの申し送りがありました。困ったなと思っていたのですが、少しでもスポーツ仲裁やスポーツ法に興味を持ってもらうため、マイクを回し対話形式の講義を行うことにしました。

さすが修習生で、私の質問に対し鋭い回答で切り返し私が唸らせられる場面もありました。私としては、全般的にみて、修習生の皆さんとコミュニケーションがとれて、講義はそこそこ上手くいったと思っています。

3 そして、今回の中央大学法学部のお話をいただきました。修習生への講義の経験からか、打診に対して「よろしくお願いします」と即答していました。

担当は、インターンシップⅣという講義です。簡単にいうと、インターンシップによって法律事務所に派遣される学生の皆さんに、その準備として法曹の仕事はどのようなものかを知ってもらう、というものです。

この講義において学んで欲しいことは、法曹の仕事をはじめとして沢山ありますが、その中でも第一にコミュニケーション能力の重要性についてです。コミュニケーションをとる能力は、どのような仕事をする上でも、更にいうと、人間が生きていく上でも、欠かすことのできない最も重要な能力のひとつであると思います。

そして、人と人との関わりに関与していく法曹、その中でも弁護士には、特にコミュニケーション能力が求められます。交渉におけるコミュニケーションの重要性は言うまでもないと思いますが、裁判においても、裁判官、相手方(検察官)、書記官・事務官、証人、その他関係者、そして依頼者とコミュニケーションをとることは極めて重要です。

4 かく言う私もコミュニケーションをとることの難しさは日々痛感しているところです。また、コミュニケーションが首尾よくとれて、仕事が成功したときの喜びも知っているつもりです。

学生の皆さんとコミュニケーションをとりながら、コミュニケーションの重要性について一緒に学んでいけたらと考えています。

 

 

 

 

スポーツ中の選手同士の事故における損害賠償

1 スポーツ中の選手同士の事故で深刻な傷害を負わされたにもかかわらず、加害者側が不誠実な態度をとったり、生じた損害の賠償をしなかったりなどということがあります。

そのような場合に、スポーツはそもそも危険が想定されている、仲間を訴えるのは気が引ける、などの理由で損害賠償請求を諦め、泣き寝入りなどしていないでしょうか。

2 確かに、ボクシングなどの殴り合うスポーツやラグビーなどの身体の接触を前提としているスポーツでは、傷害を負わされたとしても、ルールの範囲内でのプレーによるのであれば損害賠償請求は難しいかも知れません。

しかし、いくらスポーツ中の事故であっても、ルールに反するプレーによって後遺障害が残るような傷害を負わされた場合に、加害者が何も責任を負わないということは、社会通念に反すると共に、損害の公平な分担という法の理念に悖ります。

また、加害者に損害賠償請求をすることは仲間を訴えるという側面がありますが、訴訟による損害賠償請求を決意するに至る場合、大抵は加害者の不誠実な態度が大きな原因であり、そのような不誠実な態度をとる人はもはや仲間とは言えないのではないでしょうか。

3 スポーツの世界では、昨今、体罰が当たり前とされていた悪習が改まり、体罰という暴力の行使は一切許されないという流れに変わりつつあります。

同じように、スポーツ中の選手同士の事故においても、損害の賠償はされなくて当たり前などという考えを改めて、傷害を負わせた側は傷害を負った選手に対し適正な損害額を必ず賠償をしなければならないという考えを一般化すべきであると思います。

そして、このような流れを作り、安心してスポーツが楽しめるようにするためにも、ときには裁判という場できちんと主張し、認めさせていくことも必要であると考えます。

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